ケータイ辞書JLogosロゴ 小佐味荘(中世)


富山県>黒部市

南北朝期から見える荘園名新川【にいかわ】郡のうち暦応3年2月日の「一条局所領文書紛失状」に「越中国小佐味庄飯野村」とあるのが初見一条局は暦応元年10月4日の夜仁和寺河窪准后の御所保安寺に盗人がはいった時,御領の重書を盗み取られたとしてその保証を求めている(堀部家所蔵文書/県史中)康暦元年11月24日の沙弥元威(中条秀長)寄進状によると,中条秀長は文永以来の本領である「小佐味庄半分地頭職」を南禅寺の竜華庵に寄進し(南禅寺文書/県史中),翌2年6月12日「竜華院領小佐味庄半分地頭職」が「足利義満御判御教書」で安堵されている(南禅寺文書/県史中)その後天竜寺の塔頭鹿王院領となり,至徳元年11月3日には,鹿王院領に対し勅役・院役・都鄙の寺社所役等が免除されているその中に「越中国小佐味領家職并地頭職」とある(太政官牒・官宣旨・鹿王院文書/県史中)応永21年12月27日には南禅寺竜華院領荘園を守護不入の地とするよう「足利義持御判御教書」が出され,その中に「越中国小佐味参分壱」と見える(南禅寺文書/県史中)その後永享7年5月16日には鹿王院に小佐味荘地頭職が安堵され(将軍足利義教御判御教書案・鹿王院文書/県史中),同11年5月20日には,鹿王院主乾楞が小佐味荘代官職を改易しないよう連絡している(鹿王院主乾楞書状案・鹿王院文書/県史中)長禄2年4月日の「鹿王院領本支証目録」には「一,小佐味庄 勝光院殿御判一通并如菅大姉寄進状壱通」とある(鹿王院文書/県史中)文明7年5月16日には幕府が鹿王院領荘園を返付しており,それには「小佐味庄参分壱」と見え(室町幕府奉行人連署奉書・鹿王院文書/県史中),同10年5月27日には足利義政は「小佐味荘参分弐方」を鹿王院に,5月28日には「小佐味三分一方」を南禅寺に安堵している(足利義政御判御教書案・鹿王院文書/県史中,足利義政御判御教書・南禅寺文書/県史中)その後,戦国期になると守護代椎名氏の勢力が大きくなっていったものと見え,永禄7年9月16日には椎名憲信が祈願所である小佐味万松寺の寺領を安堵している(椎名憲信書状・歴代古案7/県史中)現在の黒部市・入善【にゆうぜん】町の大部分にあたる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7318825
最終更新日:2009-03-01




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