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- 中島町(近世)とは
「中島町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 中島町(近世) 江戸期~明治19年の町名直江津今町のうちの1町明治初年からは直江津を冠称関川左岸の砂丘上直江津今町の中心部町名は,関川の旧河道と当時の河道の間の中島にできた町という意味か町名の初出は寛永20年(真行寺過去帳)天和3年の石高は屋敷地のみで8石余寛延3年の家数81,天保4年の家数92・人口380(福永家文書/直江津町史)丁頭は,文政11年・天保10年では山賀屋善左衛門,嘉永2年では片田八郎次が勤めている中島町は文明年間から北楼という遊女町であったといい,江戸期には高田藩公認の遊郭であった明治3年今町渡世向軒別書上帳(福永家文書)によると,96軒中,遊女屋13,揚屋22遊女は,文政13年50人,天保9年89人,別に抱女が数十人いた(同前)明治19年直江津町の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中島町(近世) 江戸期~明治初期の町名佐賀城下の1町寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ佐賀城の北に位置する夕日町の東,夕日町の町筋と堀割で隔てて並行し,南北に延びる南端は裏十間川承応3年佐賀城廻之絵図には町名が見えず,町の成立は承応年間以降と考えられる元文5年屋敷帳では屋敷数26嘉永7年の総竈数17,人数149(男79・女70),身分別竈数は徒士1・足軽5・被官6・仲間1・その他の有姓者2・座頭1・町人16,とくに多い職種の竈数は日傭取11これによれば,身分別には町人が最も多く,職業ではほかに丸散出売や穀物仲買・酢醤油頭人などがいる宗派別竈数は禅宗15・一向宗12・浄土宗5「明治7年取調帳」では東魚町に編入したものと思われる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中島町(近世) 江戸期~明治初年の町名金沢城下町のうち元禄9年の地子町肝煎裁許附に見え,以後幕末まで地子町であった「年代摘要」は「享保十五年町続家数頭振浅野中島村十四軒」と記し,河北【かほく】郡浅野中島村の地内を町地となしたといわれる明治4年浅野川下川除町・広誓寺門前を編入上中島町となり,戸数は74下中島町は若松町と浅野吹屋町が合併して成立し,戸数は64(加賀藩史料)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中島町(近世) 江戸期~明治5年の町名堺町のうちはじめ北端郷,元禄6年北組に所属銀杏木とも称した文久3年改正の堺大絵図によれば,大道筋の戎之町から東へ4筋めに位置する元禄8年の「手鑑」によると地子銀155匁余・役家数53軒(堺市史5),寛政11年の石銀家数寄帳によれば家数33軒・地子銀155匁余・家役数54役(全志5)明治5年戎之町東1~6丁となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中島町(近世) 江戸期~明治7年の町名丸岡町の1町丸岡城のある丘陵椀子【まりこ】岡の東,外堀の外に位置する武家屋敷地「名蹟考」に中島と見え,天保7年の城下絵図によれば,城郭東部の外堀に中島口と記されている明治5年の調べでは,戸数26・人口135,すべて士族となっている同7年霞町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」