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- 古川村(近世)とは
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![]() | 古川村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 古川村(近世) 江戸期~明治10年の村名伯耆【ほうき】国会見【あいみ】郡のうち米子平野中央部,日野川下流右岸に広がる平坦地に位置する日野川の旧河川敷に立地し,元禄15年の流路変更まで河道であった地名の由来もこれにちなむ鳥取藩領もとは四日市村の枝郷であったが,享和3年地先新田として,天保5年新田村として分村した旨を幕府に届け出た(藩史5)村高は,「天保郷帳」に新田高として222石余,「伯耆志」579石余,「元治郷村帳」584石余,「旧高旧領」615石余元禄の本免は4.7,「元治郷村帳」の物成は155石余戸口は,「伯耆志」21戸・107人,「文久3年組合帳」21戸「伯耆志」によれば,北の熊党村へ8町,南の千太村へ5町,東の下新印【しもしい】村へ8町,西は豊田村に接し,南東の米子,北西の遠藤村へそれぞれ1里,産土神は日吉津【ひえづ】村の大神宮で,地内には小祠1,辻堂5がある近世後期に隣接の豊田村からの移住者が増加した日野川川床埋積による居住環境の悪化と交通の便のためである享保18年の棟札が現存する荒神宮があり,祭神は素盞嗚尊明治元年古川神社と改称された庄屋として享保~明和年間に白川源左衛門・中原定吉・番原甚右衛門,安永~文政年間に深田和次郎・深田武助・香田清蔵,天保~安政年間に田中佐左衛門・香田儀兵衛・野登路周助などの名が見える明治4年鳥取県,同9年島根県に所属同10年上豊田・下豊田・東千太の各村と合併して古豊千【こほうち】村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 古川村(近世) 江戸期~明治23年の村名... |
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![]() | 古川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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![]() | 古川村(近世) 江戸期~明治9年の村名... |
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![]() | 古川村(近世) 江戸期~明治15年の村名安芸国安芸郡のうち京橋川東岸明星院前から東方の大須新開に至る川筋を干拓して成立地名の由来は,「知新集」に「明星院の傍より一すち矢賀村へ流落る川ありしを後にせきとめられしより古川すちといひ其あたりを古川村ともよひたるよし」とある広島藩領広島城下新開組に属す寛永~正保年間頃干拓,天和3年地詰(知新集)村高は,享保14年芸備郡村高帳211石余,「芸藩通志」254石余,「旧高旧領」259石余「知新集」によれば畝数19町余,家数6・竈数11(本竈6・借竈5)・人数54旧河道に残る小川には,小竹(がら竹)を束ねて架橋した「がらがら橋」があり,これが西国街道筋となる橋のたもとには諸大名通行の際に休憩所となった茶所が享保2年設置されたが,寛政8年安芸郡矢賀村境の岩鼻に移転同所には甚六茶屋と呼ばれる一般旅客用の休茶屋もあり,その裏手の藤棚は花見の客でにぎわったという明治4年広島県,同11年広島区に所属同15年尾長村・大須賀村の各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」