ケータイ辞書JLogosロゴ 安宅(中世)


石川県>小松市

 鎌倉期から見える地名。加賀国能美【のみ】郡のうち。「源平盛衰記」に寿永2年の源平の合戦場として見える「安宅・安宅湊・安宅の渡住吉の浜・安宅城」などが初見。以来しばしば戦場となった。「太平記」によれば,延元3年7月越前の新田義貞に呼応して越後の南朝方大井田氏経らは2万騎にて加賀に進入したが,「富樫介(高家)是ヲ聞キテ五百余騎ノ勢ヲ以テ阿多賀……ノ辺ニ出合フ」とある。「朝倉始末記」によれば,享禄4年の錯乱で賀州三ケ寺に与した国人として「安宅ノ今井藤右衛門」の名が見える。ついで天文24年越前朝倉宗滴は加賀に侵攻,8月13日の浜手の戦では,超勝寺を大将とする能美郡一揆2万5,000は「或ハ安宅ノ橋ノ危ヲモ不云馳重リ,人馬共ニ堰落サレ」死者無数という敗北を喫した。10月には山崎新左衛門尉吉家が「安宅ヲ放火有ベシトテゾ打出ケル」とある。天正5年,天正7年柴田勝家は阿多賀を焼打ちした(信長公記)。安宅は古来交通の要地として,商品流通や信仰の拠点でもあった。正和元年と推定される白山宮水引神人沙汰進分注文案によれば,当地は白山宮所属の紺掻きの居住する手工業集落でもあった(三宮記/白山史料集)。康暦元年8月28日曹洞宗峨山韶碩の門流通幻寂霊が当地の聖興寺門前の橋供養を行っており(永沢通幻禅師語録),宝徳3年6月23日の旦那願文には,「加賀国安宅観音寺」と見え,熊野信仰が及んでいた(米良文書)。また神奈川県藤沢市清浄光寺蔵「時衆過去帳」には,室町期の当地が時衆道場および時衆の所在地としてしばしば挙げられ,七条道場本の「時衆末寺帳」には当地に宝界寺・相応寺が所在したことが記される。「白山之記」には加賀国八社の1つとして当地の賀茂社が記され,海港を拠点に白山信仰と結びついて浸透する時衆の様相が知られる。戦国期と推定される超勝寺下分并本覚寺下分書上に,「本覚寺下分,安宅勝楽寺」と見え,一向一揆時代の重要寺院である(本願寺文書/富山県史)。「加州所々知行被申趣又申付分」(真宗教団開展史)によれば,天文5年10月18日条に「延暦寺内星輪院領安宅」,同閏10月6日条に「武家御料所……安宅内陰山分」と見え,天文6年7月2日条には「法勝寺領……安宅,此在所事星輪院掠申上意候」とあって,幕府御料所のほか,京都の延暦寺内の星輪院や白河院の御願寺であった法勝寺の領地が散在して,複雑な領有関係にあったことが知られる。なお能楽の「安宅」は,「義経記」や幸若舞曲の「富樫」「笈捜」を素材にしたもので,奥州に下る源義経一行の安宅の関での受難を演ずる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7322869
最終更新日:2009-03-01




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