安宅村(近世)
江戸期〜明治19年の村名。能美郡のうち。加賀藩領。寛文10年村御印の村高240石,免5ツ4歩,葭役877匁・外海網役142匁5分・外海船櫂役2貫646匁・猟船櫂役60匁・松舟櫂役12匁5分・澗役74匁4分・魚の油役8匁4分・酒役4匁1分。元禄5年ごろの戸数220。天明5年では戸数224・人口1,038,慶応2年では336戸となる。村の南方には藩の御蔵が置かれていた。当村は農業以外に安宅港を持ち漁業・海運業が盛んであった。正徳2年十村支配を離れ,安宅町と改称し,小松奉行支配下となった。天明5年の小字名には川端町・山王町・東町・長田町・網町・札之木町・北浜町・米屋町・浜町があった。鎮守は安宅住吉社。寺院は真宗本願寺派勝楽寺・大谷派愍念寺がある。貞享2年日末村との間に境界争いが起こり,梯川河口から28町9間の所が村境と決定された。また水戸口から海に100間四方は向本折村・今江村・下牧村の漁場とされていたが,当村の者が勝手に漁を行っていると,同年に訴えられている。災害は,文政5年に大火があり,237戸が全焼,ほかに寺2・土蔵2・納屋64と一町全滅に近い被害を受けた。梯川はたびたび氾濫したが,家屋は小高い所にあったため,その被害は少なかったという。海難もたびたびあったが,天保13年には与三次屋平兵衛の持船神徳丸が蝦夷地よりの帰途暴風にあい朝鮮へ漂着して救われ,無事帰国した(小松市史)。明治5年石川県に所属。同年再度安宅村と改称。「皇国地誌」によれば戸数392・人口1,814。うち士族は4戸・16人。職業は船乗業228戸,うち兼漁業46と最も多く,ほかに大工職10戸・漕戸42戸・醤油小売商・油商・旅人宿業・肥物商・理髪業・酒造業・鍛冶職・魚類商・穀類商など種々の職種があった。物産のうち,大豆9石余・蕃薯1万2,382斤・堅瓜1万7,000個・実綿1,200斤・酒1,150石余などは諸村へ,鮅・鱸・鯔・鯛・鰈・鯖・火魚・魳・小鰮などの魚類や,年1頭ばかり漁する鯨を小松町や諸村へ出荷している。船は94艘。うち1,000石未満500石以上の荷船は2艘,500石未満200石以上は11艘,200石未満50石以上は34艘,50石未満30艘。漁船は17艘。明治8年勝楽寺を借用して安宅小学校を設立。同9年の男子生徒数158。また,民家を借用して安宅女子小学校を設立。同9年の生徒数65。同9年両校を合わせた校舎を新築。明治19年安宅町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7322870
最終更新日:2009-03-01