ケータイ辞書JLogosロゴ 穴虫(近世〜近代)


石川県>加賀市

江戸期〜昭和32年の町名江戸期は大聖寺【だいしようじ】城下町のうち明治5年石川県に所属同22年からは大聖寺町の町名大聖寺城下の西端,古城山(錦城山)南麓に位置し,西側は大聖寺町領穴虫谷(江沼志稿)延宝元年以前の「加賀国大正持【だいしようじ】絵図」によると大聖寺藩邸の裏側に当たり,南は北陸街道の関所に接し,武家屋敷が軒を並べる城下西方に位置した当町一帯は穴虫川氾濫による水害が多く,享保13年城下13か所に対する助船定で穴虫口に瀬越【せごえ】村から1隻が助船した(後藤文書)天明6年「大聖寺絵図」の家数25,町の中央を穴虫川が流れ,西端は家老山崎権丞下屋敷2代藩主前田利明以来吉田流御射手役をつとめる吉田丹右衛門・用人木村総左衛門ら,主要藩士の居宅があった「天保年中大聖寺城下絵図」の家数30,関町境に風伝流槍術道場がある文久年間ごろの師範奥村進之助の弟高橋寛は明治32年から大正7年まで大聖寺町長をつとめた(江沼郡誌)幕末の侍帳では藩士25人,うち200石以上4,100石以上11(県史)天保11年学問所創設時の会頭江守城陽,明治元年藩校時習館会頭平井復斎らが居住した(大聖寺藩史)同2年関所撤廃によって旧鳥越通に替え,町内を抜け三ツ村に至る吉崎通(現鳥越道)が開通し,同24年車道となる(維新前後雑談)大正から昭和初期にかけ三井物産社長・日本放送協会初代会長などを務めた岩原謙三の出身地昭和33年加賀市大聖寺錦町と改称
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7322894
最終更新日:2009-03-01




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