ケータイ辞書JLogosロゴ 飯田町(近世)


石川県>珠洲市

 江戸期〜明治22年の町名。珠洲郡のうち。宿駅が置かれ,飯田村とも称された。寛永4年奥郡御算用場が置かれた。同15年ごろには奥郡御塩奉行が在住したが,承応2年宇出津【うしつ】村(現能都町)へ移った。寛文10年村御印の村高383石,免7ツ,山役393匁・鳥役2匁・紺屋役30匁・外海船櫂役441匁・猟船櫂役305匁・間役4.8匁・網役59匁・鍛冶役48匁・室役140匁。十村組は天正以後慶安4年まで鹿野【かの】恒方組,承応2年から寛文5年まで入十村の鹿野村助右衛門および五郎兵衛組,寛文6年から明和ごろまで飯田組,文政年間三崎組,天保年間以降正院組に所属。元禄3年の百姓数185。文政年間の百姓数205・懸作数1,安政6年の百姓数223・懸作数2。なお,安政年間には同村領52石余,百姓数115・懸作数1が見られる(成之坊家文書)。収納蔵3筋があった(能登名跡志)。享保20年には猟船40艘を有した。外海船4艘を有した時期もあった。また「明とて御印戴きある小刀鍛冶あり」と載る(同前)。幕末には酒造家5軒があった。月のうち2・7の六斎市は現代まで継承されている。浄土宗大運寺はもと川尻城下ダイアンジ畑にあった真言宗寺院と伝え,天文18年岌賢の創建という(貞享書上帳)。涅槃会に団子まき,檀徒の通夜には数珠繰りを伴う百万遍念仏を執行してきた。真宗大谷派西勝寺は,もと真言宗と伝え,元暦元年慈寂の草創といい,当時は飯田城主を大檀那とし,光福庵と称したという。元和8年西勝寺と改称(西勝寺系譜)。同宗同派乗光寺も,もと真言宗と伝え,永正14年量海の時,真宗に改宗。広栗村・出田【すつた】村と寺地を移したが,延宝3年ごろまでの時期に広栗村から当村へ移った。神社に春日神社があり,往古は若山社と称し,若山荘の鎮守であったという。近郷各地の春日田は当社の神供田と伝える。7月20・21日の納涼祭には榊御輿のほか,明治初期に富山県氷見【ひみ】の山車を模して作ったという高さ7〜8mの灯籠山車が出た。垣内に橋向がある。明治5年石川県に所属。同年郵便局設置。同6年能登国第12区区学校設立,同年飯田小学校と改称。同8年邏卒屯所設置。同10年巡査屯所から飯田分署となり,同18年飯田警察署設置。同17年珠洲郡役所設置。同22年市制町村制施行後も1町として存続。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7323010
最終更新日:2009-03-01




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