ケータイ辞書JLogosロゴ 上田出村(近世)


石川県>押水町

 江戸期〜明治22年の村名。能登国羽咋【はくい】郡のうち。加賀藩領。元禄14年の村名由来并唱様等書記申帳(岡部家文書)によると慶長年間に上田村の新開地に出村として成立したが,正式に村立てされた年代は不詳という。寛文10年村御印の村高807石,免4ツ3歩,鳥役3匁。宝暦7年の大洪水により川欠・山抜け,同9〜11年にも洪水による砂入などがあり,天保8年には76石が荒地となり引高された。嘉永5年の村高812石余,散小物成は鳥役13匁。寛文11年の百姓数27(百姓25・懸作2),文化3年の家数61(百姓50・頭振11)・人数270,馬数25。嘉永5年の押水組巨細帳によると,立地は「片山里方村」に属し,畑作物には麦などの農作物のほか菜種・綿を栽培し,農間余業では藁製品・桑・楮・漆・蚕・苧絈・杪【ほだ】・茅を産し,石灰焼きを行い,古手古金商2・石灰焼1・楮蒸屋1がいた。水利は籾河川を用い,用水堤には蓮華野堤,入会用水堤には古鹿谷堤・青井谷堤があった。入会山は宝達山で,貯用林と御林山を上田村と入会で管理した(押水町史)。鎮守は愛宕社で,江戸期には宝達山の山伏和銅寺が支配した。明治2年大凶作に見舞われ,家を売り払う者も出た。明治5年石川県に所属。地租改正に伴う大谷山の山地丈量によってその所有をめぐる裁判が起き,原告側7か村の1つとなって被告側6か村と争ったが,明治12年いずれの所有とも認めがたく,13か村の共有として認める判決が下った。また宝達山本間谷の共有地の分割不履行をめぐる裁判も起き,被告側の1村となって争ったが,明治13年勝訴し,翌年の上告審でも勝訴した。同22年中荘【なかしよう】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7323497
最終更新日:2009-03-01




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