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- 沖村(近世)とは
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![]() | 沖村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 沖村(近世) 江戸期~明治23年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 沖村(近世) 江戸期~明治5年の村名播磨国美嚢【みなぎ】郡のうち美嚢【みのう】川支流吉川【よかわ】川流域慶長5年姫路藩領,元和3年明石藩領,延宝7年幕府領,享保15年大坂城代土岐氏領,寛保2年幕府領,延享3年からは三草藩領村高は,「正保郷帳」444石余うち田421石余・畑23石余,「天保郷帳」「旧高旧領」でもともに444石余正保5年の地詰検地により村内にできた荒地を,慶安4年奈良井村が再開発し,村高444石余のうち57石余が奈良井村への越石となったところが,延宝7年の所領替の際に,奈良井村越石分が沖村新田として書き上げられたため,新田分の年貢が二重に当村にかかることになったたびたび出訴したが,江戸期には沖村新田として一村として扱われつづけ,訂正されなかった(吉川町誌)享保14年の家数66・人数373,元治元年の家数51・人数222山論が多く,貞享4年には本堂山をめぐって奈良井村と,元禄7年・享保17年・文政13年には鉾立原野をめぐって栃谷・早田・永門前・奥谷・北門前の諸村とそれぞれ争論となっている(同前)明治5年豊岡村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 沖村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 沖村(近世) 江戸期~明治初年の村名常陸国信太【しだ】郡のうち小野川の支流乙戸川の中流左岸に位置する慶長6年牛久藩領,同18年幕府領,寛永6年からは牛久藩領「寛文朱印留」では新川沖村と見える村高は「元禄郷帳」194石余,「天保郷帳」208石余当村は水戸街道荒川沖宿を兼ねており,牛久宿に至る登り2里の片継を担当し,助郷人馬は15疋・15人定助郷村は岡見・中根・本郷の3か村(茨城百姓一揆)当村は荒川野10か村入会地の野元村で,荒川(本郷)村・十石村とともに入会野で草刈りをしていたが,貞享2年~元禄2年には小岩田村ほか7か村とともに右籾・烏山両村の入会野境を侵したことで争論が生じた江戸中期に越後三条の商人加賀屋彦兵衛(新兵衛)が沖新田を開発し,天保年間までに当村から分村したとみられる(土浦市史)寺院は真言宗地福院(現在廃寺)明治初年までに荒川沖村と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 沖村(近世) 江戸期~明治初年の村名常陸国信太【しだ】郡のうち小野川の支流乙戸川の中流左岸に位置する慶長6年牛久藩領,同18年幕府領,寛永6年からは牛久藩領「寛文朱印留」では新川沖村と見える村高は「元禄郷帳」194石余,「天保郷帳」208石余当村は水戸街道荒川沖宿を兼ねており,牛久宿に至る登り2里の片継を担当し,助郷人馬は15疋・15人定助郷村は岡見・中根・本郷の3か村(茨城百姓一揆)当村は荒川野10か村入会地の野元村で,荒川(本郷)村・十石村とともに入会野で草刈りをしていたが,貞享2年~元禄2年には小岩田村ほか7か村とともに右籾・烏山両村の入会野境を侵したことで争論が生じた江戸中期に越後三条の商人加賀屋彦兵衛(新兵衛)が沖新田を開発し,天保年間までに当村から分村したとみられる(土浦市史)寺院は真言宗地福院(現在廃寺)明治初年までに荒川沖村と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」