ケータイ辞書JLogosロゴ 奥池村(近世)


石川県>河内村

 江戸期〜明治22年の村名。加賀国石川郡のうち。加賀藩領。寛文10年村御印の村高72石,免3ツ8歩,山役76匁・川役9匁。正徳4年の戸数27,寛政3年10(改作所旧記)。江戸末期には25戸。人口は不詳。十村組は文政4年下河内組十六か村,天保11年より河内組三十一か村に所属(郷土辞彙)。鎮守は少彦名神をまつる粟島社で,明応以前の創建という(石川郡のやしろ)。寺院はない。古来水田はなく炭焼き・焼畑農業・養蚕を生業とした。特産物にいら裂織があった(加賀志徴)。延宝8年の剣【つるぎ】村太兵衛書上に,池の銀山の盛期には家数200余りとあり,元禄12年剣村又七書上に80年ばかり前に銀山を開発,50年ほど続き当時の家数は145戸があったとする(改作所旧記)。ただし享保元年の十村鶴来村又七,吉野村甚七書上では,奥池村かな山は元和期よりあったという(加賀志徴)。垣内の口池村は,「改作所旧記」によれば,奥池村は多雪地で冬季居住が危険であるので3里ほど口へ出,久保村・中直海【なかのみ】村領続きに屋敷取りし,冬10月中旬ころより翌年3月まで口池に居住,3月下旬当地に帰って稼いだといわれ,正保期にはすでに口池居住がなされていたという。明治5年石川県に所属。同7年からは久保小学校校下となる。同22年河内村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7323818
最終更新日:2009-03-01




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