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- 上新庄村(近世)とは
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上新庄村(近世) 江戸期~明治7年の村名備中国浅口郡のうち新庄川上流域に位置する新庄村が寛文~正徳年間に上新庄・下新庄に分かれたともいうが(里庄町誌),「元禄郷帳」「備中至宝記」「天保郷帳」には新庄村と見え当村名は記されず,天保年間の検地では下新庄村と当村に分けられており,天保年間頃新庄村が下新庄村と当村に分村して成立したと思われる摂津国麻田藩領村高は,「備中村鑑」295石余,「旧高旧領」337石余天保年間の検地では高295石余麻田藩の代官所が当地にあり,のち浜中村に移された天保年間には,飢饉に見舞われた米・麦・粟・菜種の生産を主体とした農村で,農閑期には火鉢・こんろ・やまとごたつ・ほうろくなどの大原焼がつくられた麻田県,深津県を経て,明治5年小田県に所属同7年新庄村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
上新庄村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
上新庄村(近世) 江戸初期の村名越前国今立郡のうち福井藩領慶長国絵図の今南西郡新庄村4,464石余のうちで,この新庄村が上・中・下の3か村に分かれて成立した「正保郷帳」に村名が見え,村高は1,657石余うち田方1,390石余・畑方266石余「元禄郷帳」では戸谷・長尾・三ツ屋の3か村に分かれる貞享2年4月6日付戸谷村明くわん(妙観庵)宛文書(戸谷町有文書)は,長尾・三ツ屋両村の村役人が村除地を保障しており,そこに3か村の名が出ているので,貞享年間までには分村したと考えられる3か村のうち,戸谷・長尾は三里山の西南麓にあり,三ツ屋は西方の平地にあるが,耕地は混在し,明治9年の地籍図は一枚として作成されたしたがって,水利など3か村の共通の問題については常に協力しあったといわれる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
上新庄村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」