ケータイ辞書JLogosロゴ 北村(近世)


石川県>七塚町

江戸期〜明治14年ごろの村名加賀国河北【かほく】郡のうち加賀藩領河北潟と日本海の間の内灘【うちなだ】砂丘に続く河北台砂丘に位置する慶長6年12月13日の前田利長判物(御条目等書上帳/加賀藩史料)に七塚地区の村として「木津村・松はま村・太郎兵衛塚村・あき浜村・上あき浜村・ひすみ村・しろ村」と見える現在の位置から推して,あき浜村が北村,上あき浜村が秋浜村になったと想定される(七塚町史)明暦2年の「加賀浦方三十五浦」になく,寛文7年の「加越能三国諸浦船割符調」に見えることから村立てはこの間と推定される寛文10年の村御印によれば,村高なしという特異な砂丘村小物成は地子銭140匁・塩竈役78匁(ほか39匁退転)・塩役22匁4分出来・外海引網役60匁出来・外海船櫂役161匁退転・六分口銭8匁出来天明6年20石・文化13年20石・嘉永5年58石余・安政2年35石,計133石余の新開高がある(林家文書・区有文書)免は高い時で1ツ2歩,平均5歩と低率新開地に桃の栽培などが行われたが,生業の中心は小物成に見るように漁業で,寛文7年には500石積船があり,広く諸国と交易した海運業者が存在(加越能三国諸浦船割符調)肝煎は喜多西家文化8年の戸数34・人口203(林家文書),天保9年の戸数34・人口190(塚本家文書),安政2年の戸数45(喜多西家文書)神社は稲荷神社明治4年の戸数57(林家文書)同5年石川県に所属江戸期末から明治初年にかけて,素麺の製造が盛んであった(喜多西家文書)明治14年ごろ同一郡内に同名村(笠野郷北村,現津幡町山北)があったため浜北村と改称(河北郡誌)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7324505
最終更新日:2009-03-01




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