ケータイ辞書JLogosロゴ 金間村(近世)


石川県>河内村

 江戸期〜明治22年の村名。加賀国石川郡のうち。加賀藩領。寛文10年村御印の村高99石,免3ツ3歩,山役163匁・川役11匁・炭役24匁。正徳4年の戸数24,寛政3年20(改作所旧記)。人口は不詳。十村組は文政4年下河内組十六か村,天保11年より河内組31か村に所属(石川郡誌)。鎮守は少彦名命・彦火々出見命を合祀する金満社で,永禄年間に金間右衛門が当社の社家となり,村人の崇敬を集めたという伝承がある(石川郡のやしろ)。寺院はない。古来水田がなく焼畑農業・養蚕・炭焼き・麻作り等を生業とした。慶応3年の戸数25(河内村史)。垣内の小谷沢【おだんざわ】村・小谷【おだん】村は中金間の別称,南古羅【なんこら】村は上金間の別称である。これに対し金間の本村を通称下金間という。小谷村は直海谷川の支流古谷【こだん】の左岸にあり,古谷の奥は流れが2つに分かれ,右はノド,左はクビといい合流して大谷と称されており,小谷村あるいは小谷沢村という(同前)。中金間の上の部は上出【うえで】,下の部は沢出【さわで】と称し,それが小谷村・小谷沢村であるともいう。南古羅については,南向路とも難行路(冬は雪崩で通行困難)ともいい,別に難攻路とも称し,それが南古羅になったと説いている(同前)。嘉永7年の戸数は21で,下金間5,中金間の上の部3,下の部3,上金間4,ほかに通称ワダゼの6であった(同前)。明治5年石川県に所属。同8年久保小学校の校下となる。同22年河内【かわち】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7324580
最終更新日:2009-03-01




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