口直海村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。加賀国石川郡のうち。加賀藩領。寛文10年村御印の村高は90石,免3ツ6歩,山役79匁・川役9匁。天保9年の村高は90石,免2ツ7歩(小松屋文書)。正徳4年の戸数19,寛政3年では17戸(改作所旧記)。天保9年の戸数18,牛21(小松屋文書)。十村組は文政4年下河内組十六か村,天保11年より河内組三十一か村に所属(郷土辞彙)。鎮守は少彦名神をまつる粟島社。寺院はない。安政5年当村の農民が中心となり鶴来【つるぎ】村商家の打毀事件を起こす(内尾区有文書・山口家文書)。古来水田耕作・焼畑農業・養蚕・炭焼き・麻作りを生業とした。明治5年石川県に所属。同年福岡小学校の校下となる。垣内の茶屋村は,手取川と直海谷川合流点,直海谷川右岸に2戸あったと伝えられ,「直海谷渓遊記」によれば,能美【のみ】郡橋爪と茶屋は刀工藤原家次の旧址也と伝える。同22年河内【かわち】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7324618
最終更新日:2009-03-01