ケータイ辞書JLogosロゴ 笥笠(古代)


石川県>吉野谷村

平安後期に見える地名加賀国石川郡のうち白山への禅定道(登拝路)の中間点,登攀路の起点に位置し,中ツ宮として,白山宮加賀馬場の中宮三社の中核となった中宮が所在したため,中世以降は,笥笠に代わって,中宮の名が地名化した保安2年6月1日の「白山上人縁起」(本朝続文粋)に現れる「笥笠神宮寺」が初見長寛元年ごろの成立とされる「白山之記」も,「笥笠中宮」と記し,笥笠の地形を,八方を高山に囲まれた蓮華のような段丘と表現している中宮三社の1つである下流の佐羅宮【さらのみや】(現在の吉野谷村大字佐良【さら】付近)から中宮に向かうには,手取川の本流と支流尾添【おぞう】川との合流点に近い濁澄【にごりすみ】橋(現在の吉野谷村大字木滑新【きなめりしん】と尾口【おくち】村大字瀬戸の間にあって尾添川に架けられた橋)を通って,いったん,尾添川南岸を東に進み,酒殿【さかどの】社を経て,一ノ橋で尾添川北岸に渡り,河岸段丘上の中宮に達した「白山之記」の増補部分に,女性は「中宮マテ参詣」と見え,「白山禅頂私記」(白山史料集)の永正6年8月5日の追記部分に,「一ノ宿」の本宮に次ぐ「二ノ宿」として中宮法台坊の名が見える中宮からは,葛籠渡【かごのわたし】(大綱と轆轤【ろくろ】を用い籠で渡るいまの手杵【てきね】橋)で,尾添川の南岸に渡り,加宝宮(現尾口村大字尾添の加宝神社)から登攀を始めた安元2年8月に,中宮の末寺群「中宮八院」の1つである鵜河【うかわ】涌泉寺を焼いた目代藤原(近藤)師経を加賀の国府から追放し,翌安元3年(治承元年)2月から6月にかけて,本寺の山門延暦寺を動かして加賀守藤原(近藤)師高・目代師経兄弟の解任・流罪を要求して強訴を展開した安元事件の主導勢力は,この中宮の衆徒・神人であった(延慶本平家物語第1本・覚一本系平家物語巻1源平盛衰記巻4のみは,本宮四社も同調したとする)「時衆過去帳」15代尊恵条に,応永末年の時衆重阿弥陀仏・師阿弥陀仏の居所として現れる「中宮」も,おそらくは加賀国石川郡の中宮であろう現在の吉野谷村中宮集落の東端に笥笠中宮【すがさちゆうぐう】神社がある現在の呼称「すがさ」は「笥」の音読からきた一種の誤読に由来するかと思われる
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7324754
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ