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「石動山」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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石動山【せきどうさん】 鹿島郡鹿島(かしま)町・七尾(ななお)市と富山県氷見(ひみ)市にまたがる標高565mの山 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
石動山【せきどうさん】 鹿島郡鹿島(かしま)町・七尾(ななお)市と富山県氷見(ひみ)市にまたがる標高565mの山... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
石動山(古代) 石動山寺は中世において最盛期を迎え,360坊と多数の衆徒・僧兵を擁したと伝承され,軍事的にも大勢力となった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石動山【せきどうさん】 (古代)能登・越中の国境にそびえる山(標高565m),この地方の最高峰である... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
石動山 天正10年6月の前田利家による焼打ちによって全山が炎上した石動山天平寺(五社権現)の衆徒は,一時,北方約5kmの灘浦(口能登外浦=富山湾)に面する伊掛【いかけ】山(現七尾市北東部)に亡命した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石動山 天正10年6月の前田利家による焼打ちによって全山が炎上した石動山天平寺(五社権現)の衆徒は,一時,北方約5kmの灘浦(口能登外浦=富山湾)に面する伊掛【いかけ】山(現七尾市北東部)に亡命した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石動山(古代) 能登・越中の国境にそびえる山(標高565m),この地方の最高峰である古くは,「いしゆるぎやま」「いするぎやま」と呼ばれていた古来,能登石動山と称せられ,地籍は石川県にあるが,地形的には両県境界の分水嶺にある山内には延喜式内伊須流岐比古神社が鎮座する神社明細帳によれば,祭神を伊須流岐比古神【いするぎひこのかみ】,相殿の神を伊弉諾尊・伊弉冉尊・天目一箇命・大物主命・石杵島姫命とするもと五社権現と呼ばれ,大宮・白山宮・火宮・梅宮・剣宮の5社を祀ったその神宮寺として石動山天平寺があり,中世の盛時には伝承によれば僧坊360余・衆徒3,000人を有したといわれ,北陸では白山につぐ宗教的大勢力であった石動山の山頂はピラミッド形をなし,神体山と見られ,原始林が繁茂し,山麓農村の灌漑用水源地となり,海上航路の目印となり,漁民の網おろしの原点となり,古来地方人民の信仰の山であった天平寺とは後世の僭称で,もとは石動山寺または石動寺と称したその創建については確かな史料がなく,2種類ある石動山縁起も,古縁起は中世末のものと見られ,新縁起は承応3年に前田利常の命によって林道春が起草したものである古縁起によれば,この地は往古崇神天皇の頃,法道(方道)仙人の住んだ所で,天智天皇以降,累代皇室の勅願所となった元正天皇養老年中,智徳上人が勅を奉じてこの山へ登り,次いで孝謙天皇天平勝宝年中に至って堂塔伽藍ことごとく具備し,以来天平寺と名づけられ,1,000年来繁昌の浄域となったという新縁起には法道仙人・智徳上人のことを記さず,泰澄大師の開山を述べているのは,白山縁起を模したものである新古両縁起の内容は神変怪奇の記事に満ち,史実と見ることはできない鎌倉期の「拾芥抄」に,「石動【ゆするぎ・いしゆるぎ】寺在能登国虚空蔵智徳上人光仁第四草創」とあるのはやや信ずるに足るか江戸期の「和漢三才図会」には「石動寺在能登郡真言光仁天皇第四皇子智徳上人草創」とあって,「拾芥抄」を踏襲している「皇統譜」には光仁天皇皇子に智徳上人の名は見えないが,平安初期ともなれば,地方の霊山で500m級の険しからぬ山に,仏教道場が開かれ,皇族出身の僧侶が迎えられて入山したとしても無理ではなかろう |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石動山(古代) 天正9年7月,織田信長は,長連竜の所領内にあった上杉謙信侵入以後天平寺に与えられた新神領を削って,これを連竜に与えた... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石動山(古代) 明治維新となり,神仏分離令が発せられると,衆徒は困惑して幾度も集会し協議を重ね,明治3年4月,寺院天平寺を廃止し,伊須流岐比古神社のみを残すことに決した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石動山【せきどうさん】 (近代)明治22年~現在の大字名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
石動山 神仏分離以後に残留した少数の旧衆徒の系譜を引く住民のほかは,明治維新以後の新たな移住者によって構成されていた... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」