ケータイ辞書JLogosロゴ 能登部村(中世)


石川県>鹿西町

 鎌倉期から見える村名。能登国鹿島郡のうち。承久3年9月の能登国田数注文に,「能登部村」公田数10町3反(本ハ22町7反9)とあるのが初見(鎌遺2828)。応安2年12月の得江季員軍忠状や同年月の得田章房軍忠状によると,北朝方の能登守護吉見氏頼は,同年4月28日から6月1日にかけて,「能登部城」や金丸城に拠り,越中から能登に乱入した桃井直常ら南朝勢と戦った(得江文書・得田文書)。また,戦国期には能登一ノ宮気多社の免田や神役負担が知られ,大永6年10月書写の「気多社年貢米銭納帳」に,他人知行分「四貫百四十文,専願寺(能登部)」「弐貫三百文 かわら田壱町ノ役ノ井上方(能登部能阿兵衛)」,天文21年2月の「気多社年役注文」に,「能登辺村,進止免田」として毎年10月22日に「九石参斗下村,九石三斗上村」(此分斗代4ツ入)とあり,天正5年11月の「気多社免田記」には,能登部村より神官方44俵(斗2ツ)・衆徒方15俵が,それぞれ藤王殿分として見えている。当時,村内は上・下両村に分立しており,天正5年9月の能登守護畠山氏滅亡後には,藤王氏の知行分となっていたようである(以上,気多神社文書/史料纂集)。永禄3年から天正11年ごろにかけ,能登部村の「江尻」の地を巡り,石動山衆徒や江尻の住人太郎兵衛・二郎丸左近・田所源二郎らの間で,山・田地の沽却や年貢夫役免除の動きがあり,天正8年11月には,鹿島半郡を領有することになった長連竜が,同郡田鶴浜【たつるはま】に悦叟寺(兄綱連の菩提寺)を創建し,「能登辺村之内弐拾壱貫六百文之所,百姓一人相添」寺領として寄進している(乗念寺文書・悦叟寺文書)。現在の鹿西【ろくせい】町大字能登部上・下・徳丸付近に比定できる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7327043
最終更新日:2009-03-01




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