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- 馬庭村(中世)とは
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馬庭村(中世) 鎌倉期から見える村名能登国鹿島郡のうち承久3年9月の能登国田数注文に,「馬庭村」として公田数6町1反8(本ハ16町6反8)と見える(鎌遺2828)大永6年書写の能登一ノ宮気多社の「気多社年貢米銭納帳」に他人知行分として「壱貫七百廿文,西馬場(坪ノ内)」,また,「弐百六拾文,東馬場(くほた)」とあり,天正5年11月の「気多社免田記」では,「ひかしハゝ村ヨリ」15俵1貫265文が神官方へ納められたと見える戦国期には,東西2村に分立し,それぞれ気多社の神役を負担していた(気多神社文書/史料纂集)江戸期は東・西馬場村が成立邑知【おうち】地溝帯中央部に位置し,現在の鹿島町東馬場から鹿西【ろくせい】町西馬場付近に比定できる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」