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- 吹屋町(近世~近代)とは
「吹屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 吹屋町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は金沢城下町のうち,地子町の1つ明治22年からは金沢市の町名町名は鋳物師が集住したことによる(亀の尾の記)元禄3年の火災記には田井...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7327467]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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吹屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,町人地明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名津山城の南西に位置する東は船頭町,西は桶屋町・南新座,南は吉井川,北は新魚町に接する町名の由来は,吹屋すなわち鋳物師の町として作られたことによる町の成立は寛永2年とされ,金屋村の鋳工が森氏の命令により移住し,瓜生原の鋳物師も移住,はじめ鋳物師町と称したが間もなく吹屋町に改称した元禄10年の城下町図によれば,家数49うち持家41・借家8,人数450(男220・女230)鋳物は津山の主要な移出産業で,鍋釜の日用品から仏像など工芸品まで広い分野でよく知られ,また美作各地の梵鐘・神鈴・半鐘なども当町から納められた津山家数役付惣町竪横関貫橋改帳によって鋳物師の屋号を見ると,釜屋・瓜生原屋・金屋・吹屋・鍋屋などが見られる釜屋は百済家で,この系統は南北朝期に河内の丹南郡狭山(大阪府狭山町)から金屋村に移っていたものである瓜生原屋は谷口と称し2軒あり,屋号は出身地の瓜生原による「百済記録」によれば,釜屋は天保15年松平家から唐金大砲1丁の注文を受け納品し,文化2年に新見藩から,嘉永元年今治藩からさらに阿波,加賀,長門,松山の各藩などからも注文を受けて鋳造している文久年間この実績に立って幕府の大砲の受注となった町内神は八頭神社で,位置は桶屋町分に入るが,火産霊神を祀っているので当町に関係は深い明治初期の戸数61・人口253(津山誌)美作山地の砂鉄を背景とした鋳物業は明治以後も続いたが,外国の鉄鉱石の輸入や近代的鉄工所の発達により伝統の火は消え,釜屋本家も大正13年廃業したしかし今も牛や馬をつないだ鉄輪が残る家がある世帯数・人口は,昭和45年96・280,同55年86・221 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」