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- 藤井村(中世)とは
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藤井村(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える村名摂津国島下郡のうち寛元元年5月21日に沙弥心空が記した勝尾寺古流記に「施入水田六十町〈在当州嶋下郡牟礼・蕀切・田中・倍賀・畠田・甘舌・藤井等〉已上七箇村也」とあるのが初見(勝尾寺文書/箕面市史史料編1)本文書には開山開成皇子が宝亀3年7月13日に大般若経等を奉納したことによって霊異が生じ,これを聴いた天皇が水田60町を施入した旨が記されているついで,文永6年3月8日の僧聖舜寄進田地所当并支配注文に「七斗〈藤井田,替〉」と見える(同前)下って建武2年2月日の近衛家領居住寺僧交名注文案には「美作房〈同(不知実名)〉在所同 又藤井ニ住家名田畠等在之」とあり,美作房なる者が近衛家領である当村に住家・名田畠等を所有していたことがわかる(同前/箕面市史史料編2)同年8月日の浄土寺僧正坊公文所行心申状案によると,この美作房は勝尾寺僧で,浄土寺領に乱入し狼藉を行っている(同前)また貞和5年11月日の鳥居造立条々注文の「一,散在賦紙袋米銭上帳事」の中に「四百文 藤井」と見える(同前)現在の茨木【いばらき】市あるいは吹田市内に比定されるが未詳 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」