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- 矢作村(近世)とは
「矢作村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 矢作村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 矢作村(近世) 江戸期の村名... |
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![]() | 矢作村(近世) 江戸期の村名松浦郡のうち鏡山南麓に位置するもとは半田【はだ】村のうちに含まれていたが,宝暦6年に分村して成立唐津藩領鏡組に属す村高は「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに559石余「天保郷帳」では「半田村之内 矢作」とある南の半田村を通って筑前国へ至る唐津道が通る文化年間頃の田畑高は593石余,畝数23町余,年貢率は5割6分6厘,家数50・人数216,うち男118・女98(松浦拾風土記)村内には,杉殿古墳・鬼五郎塚・水尻古墳などの遺跡が残る「肥前国風土記」には,褶振峰【ひれふりのみね】に弟日姫の遺骸が埋葬されたとあり,その墓地は当村に比定される寺院は石造地蔵菩薩を本尊とする清蔵庵があった堂は寛保期と明治8年に再建されたが,その後焼失し,現在は本尊は鏡山愛染院にある「明治7年取調帳」「郷村区別帳」ではともに半田村の枝村として見える「明治11年戸口帳」によれば,戸数56・人口280... |
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