赤坂村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。越前国丹生郡のうち。はじめ福井藩領,貞享3年から幕府領。村高は,「正保郷帳」101石余うち田方40石余・畑方60石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」でも同じく101石余。枝村に坂谷・曽蓮地がある(名蹟考)。寛延3年の村鑑(前阪家文書)によれば,反別は田3町余・畑17町7反余,家数30・人口165(男80・女85)。また,当村所持の山のほかに茗荷村から永請山4か所を借り受け,農間余業として稼薪売木を行っていた。また,借り船も1艘持っており,居倉浦の通称かなせの浜から近郷へ運んだりもしている。小規模な田畑を谷川や溜池の水で耕作していたが,享保20年大雨による土砂崩れで約1町の田畑が埋まり,天保元年の山崩れでは150人の人足を用いて復旧作業を行った。また,高波による被害も多く,安永2年には326人の人足を動員して波除堤の普請を行った。慶応4年の不作に際しての検見では,1反当たりの石盛の最高は3斗,最低は9升であった(同前)。浄土真宗本願寺派光照寺は,寛文3年法性寺(越前専修寺)が廃寺となった際破却追放となった末寺5か寺の1つであるが,その後法雲寺とともに真宗大谷派に転じ,さらに享保3年浄土真宗本願寺派に移った。明治3年本保県,以降福井県,足羽【あすわ】県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。「足羽県地理誌」によれば,戸数18・人口103(男59・女44),牛2,物産は桑・繭・油桐実。同22年下岬村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7328942
最終更新日:2009-03-01