ケータイ辞書JLogosロゴ 今泉浦(中世)


福井県>河野村

 室町期から見える浦名。越前国南仲条郡のうち。室町期頃から当地周辺では,塩荷商売の利権をめぐって周辺馬借との間で相論が起こっており,寛正6年の守護斯波氏府中小守護代連署奉書(宮川源右衛門家文書)によると,河野・今泉両浦と山内(中山・湯谷・勾当原・別所・八田)の馬借による塩・榑商売に対して規定が設けられ,両浦半分・山内半分で行うこと,返荷は両浦で3分の2,山内3分の1とするとしている。これに伴って同年に作成された山内馬借中の定書(西野次郎兵衛家文書)によると,当浦馬借問屋に出入りする山内馬借中は,問屋の意向に従い,勝手な商いをしないこと,問屋の手を通さない荷物を運送しないこと,塩・榑を里人が直接買いつけるのを見過ごさないことなどを誓約している。中屋は今泉浦刀禰も兼ねており,文明2年には刀禰名の坪付が,同4年には中屋本名の坪付が作成されている。文明〜長享年間頃と推定される朝倉光玖判物によると,河野・今泉両浦の高木船橋の役負担は,敦賀渡海の用事に使用するため免除することとしている(同前)。延徳2年に至って先の両浦と山内との相論が再燃するが,府中奉行人連署奉書(宮川源右衛門家文書)では塩・榑商売に対する寛正年間の裁許を追認している。永正5年の朝倉貞景判物(西野次郎兵衛家文書)では,他国からの塩榑船着岸時には里からの直買を禁じ,河野・今泉両浦と山内の特権を認めており,これに伴って作成された同年の浦・山内馬借中定書写でもこれを確認している。なお同史料では中屋刀禰のほか,今泉浦惣代として「ゑいちん」「はしつめ」が署名している(同前)。この頃隣接する河野浦では魚網の使用を開始し,今泉浦の海境を侵す事態が生じていた。このため同7年の中屋常慶置文(浜野源三郎家文書)でこの境を「当浦(今泉浦)之内さるおの川をあけハさかい,向浦ハ立石浦の下のはなをさかい」としたが,普段はこの境にとらわれず,海・山ともに両浦の者は相互に入り込むことが可能であるとしている。朝倉氏時代には府中〜今泉間の西街道は北国へ通ずる街道として重視され,永正12年には朝倉氏が惣国道路普請を命じるが,河野浦はこれを今泉浦との相論を理由に拒否している(西野次郎兵衛家文書)。また同年と推定される朝倉教景書状(中山正弥文書/敦賀市史史料編)では,気比社造営の材木の海上運搬に,河野・今泉両浦では杉津までの運搬の前例がないことを主張するが,浦ごとに順次に送るよう命じられている。天文3年には河野・今泉両浦の海道が洪水で崩落したため,朝倉氏府中奉行人連署状(西野次郎兵衛家文書)で,当地などに対してその復旧作業が命じられている。また同12年の敦賀河野屋舟着船定書によると,当浦惣中と敦賀河野屋との間で着船規定が設けられ,河野屋舟の着船は今泉浦に限り,河野浦での荷扱いを禁じている(同前)。同21年の山口吉則・小原美将連署書状,朝倉氏府中奉行人連署注進状(宮川源右衛門家文書)によると,同年河野浦の覚善五郎次郎は塩商売における両浦と山内の特権を認めた規定を破り,里買の塩を新規の開削道を通って密かに運んだため「今泉浦并山内馬借中」から一乗谷に訴えられている。永禄2年の今泉浦刀禰等連署書状案(西野次郎兵衛家文書)によると,この頃馬借証文の保管をめぐって起こった河野浦からの訴訟に伴って,証文は今泉・河野・山内の間で3年に1度ずつ輪番保管し,紛失の場合は当該地の馬借業務を停止することを相互に確認している。元亀3年と推定される立神重珎書状によると,前年朝倉義景は諸浦から役舟を徴発して敦賀津に集結させたが,「今住浦」については敦賀渡海のための役舟も必要であるとして,提供された6艘のうち3艘の役舟は在所に残すよう命じている。また翌3年の白鬼女船橋の役舟は朝倉光玖の判物を根拠として除外されている。天正元年,織田信長の越前侵攻に際して発せられた禁制の宛所に「今泉浦」と見える。同13年に河野浦との間の網場を巡って起こった相論では,河野浦側が「さかいの河」より下へは下らない旨を誓っている。織豊期の慶長5年には大谷吉継から「今泉村」に宛てて禁制が出されている(同前)。なお当地内常栖寺には,大永2年の年紀を有する朝倉秀栖の墓地がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7329464
最終更新日:2009-03-01




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