ケータイ辞書JLogosロゴ 大桐村(近世)


福井県>今庄町

 江戸期〜明治22年の村名。越前国南条郡のうち。福井藩領。「正保郷帳」では「大桐山中村」と記され,村高は田方44石余・畑方40石余の計84石余。「元禄郷帳」では当村と山中村に分かれ,当村の村高55石余,「名蹟考」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高。天正17年の赤座吉家判物(前川三左衛門家保管文書)によると,五ケ・宅良などにおける灰商売の特権が「大切村」百姓中に許されている。このように,当村では,領主赤座氏の保護により焼灰の商いが盛んとなったが,敦賀の東浦の浦々が製塩用などの木材を得ようと当村内に入り込んで山林切荒しをしたため争論となり,慶長18年9月12日付の詫状が東浦の1つ大比田浦から出されている。しかし,その後何回も争論は起こった。ただし敦賀湾内の諸浦と当村は古代からの塩の道を通じ,浦々が求める製塩用薪材としての木地業の廃材と塩俵を交換してきたという。明治初年の地租改正査定によれば,田18町3反余・畑1町1反余,明治11年の戸数43・人口231(南条郡誌)。同21年は戸数45・人口249,田18町3反余・畑1町余・宅地1町5反余・山林180町4反余など計502町8反余(同前)。明治に入っても,焼畑農業が経営上大きな比重を占めた。神社に日吉神社があるが,近年まで当地は仏教信仰が強く,神社へ参拝しても念仏を唱える風であった。寺院は浄土真宗聞光寺。古くは正光寺と称し,再建後も同寺号であったが,寛保3年福井藩主の謚号をはばかって改称したという(今庄町誌)。明治4年福井県,以降敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。同22年鹿蒜村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7329790
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ