ケータイ辞書JLogosロゴ 大谷浦(中世)


福井県>河野村

 鎌倉期から見える浦名。越前国南仲条郡のうち。村名でも見える。建暦2年の気比宮所領注進状(気比宮社伝旧記/鎌遺1945)によると,「大谷浦」から別役物として苔・若和布・和布・塩・櫃・甘鮨・大鮨などが気比社に納められており,気比社領であったことがわかる。室町期の寛正5年の年紀を有する大塩八幡宮縁起(大塩八幡宮文書)によると,仁和3年に紀友仲は謀臣の讒訴により「府中之南大谷口泉島」に流罪になったとある。文明4年の朝倉景冬奉書(平松文書/敦賀市史史料編)は宛所を欠くが,「気比社領内大谷跡大谷浦」とあり,大谷氏の知行地であった当地が,応仁・文明年間の越前の争乱で朝倉氏に没収されたものと推定される。永正9年の菅谷・大谷両村山境書立写(向山治郎右衛門家文書)によると,東は湯尾に接し,南・北・西の三方はそれぞれ「めうと岩」「くろ尾」「ほちけ清水」と見える。天文13年の大谷浦山手銭請取状写(下野悦二文書/敦賀市史史料編)によると大谷浦の山手銭が本比田浦より納められている。天正3年の織田信長朱印状(平吹明教文書/同前)も宛所を欠くが,「一,おほたにうら」とあり,当地など5か所が忠義の賞として宛行われている。天正18年の府中知行目録では大谷浦43石余とあり,慶長3年の府中高目録では72石余に増加されている。同11年には当浦の鹿子谷の一部が河内村に薙畑として貸され,年貢1石余を納めると約束している(向山治郎右衛門家文書)。慶長国絵図では「平・大谷村」115石余とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7329845
最終更新日:2009-03-01




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