ケータイ辞書JLogosロゴ 王見郷(中世)


福井県>坂井町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。越前国坂北郡河口荘のうち。同荘10郷の1つ。弘安8年とされる越前兵庫郷分米注進状に「王見郷」と見え,弘安6・7・8年の政所沙汰分米が記されている(大乗院文書/鎌遺15772)。河口荘田地引付所載の弘安10年12月日付公文注進状には「河口庄王見郷 田合五十四町六反百九十歩 除田十三丁二反二百四十歩内」と見える(北国庄園史料)。鎌倉期からの状況を伝える年月日未詳の河口荘御前帳写によれば除田の仏神田のなかに西寺田・福多女田・阿弥陀寺田・講下用米・御神楽田などが規定されており,在地寺院の活動が伺える(春日神社文書)。興福寺大乗院領としての当郷の職人(荘官)は,応永21年公文甲斐氏・政所島田弥三郎で,永享9年頃は政所大膳寺であった(寺門事条々聞書・諸荘段銭注文/北国庄園史料)。長禄2年9月大乗院の直務となり公文・政所ともに無主であったが,同月8日島田平左衛門が政所に入部したという。同年10月守護方の在地有力者堀江石見守は当郷などの大乗院直務を認めている(大乗院寺社雑事記)。文正元年7月公文甲斐氏・政所島田三郎,下って明応5年閏2月には堀江加賀守入道が当郷の代官職にあった(同前)。戦国末期の年月日未詳の越前国春日領大乗院門跡知行分之事によれば臼井氏が当郷の代官で,天正3年の「越前国相越記」9月9日条には当郷が臼井・新保の2氏に配分されていたことが見える(北国庄園史料・山田竜治家文書)。この両氏はもと朝倉氏の家臣でその活躍が「朝倉始末記」などにみられる。当郷内の村名については「大乗院寺社雑事記」文明16年11月7日条に「王見郷之東之村ハ悉以苅田」,明応8年卯月8日の次郎衛門田地売券には「売主王見郷中村住人次郎衛門」と見える(性海寺文書)。また,同文書によると当郷内に岩長(永)名が存在するが,前述の弘安10年12月日付公文注進状によれば岩永名は王見・兵庫・大口各郷に見える。天文5年10月7日には「王見郷岩長名」の田地1反が滝谷寺へ寄進されている(滝谷寺文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7329923
最終更新日:2009-03-01




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