ケータイ辞書JLogosロゴ 北方浦(近世)


福井県>芦原町

 江戸期〜明治22年の浦名。越前国坂井郡のうち。福井藩領。高は,「正保郷帳」2,406石余うち田方1,199石余・畑方1,206石余,「元禄郷帳」も同高,「天保郷帳」2,456石余,「旧高旧領」では北潟浦と見え2,406石余,ほかに八雲社々領50石とある。金津宿と三国湊を結ぶ道路の脇道が当浦に至る。北潟湖東岸との間に蔵崎の渡しがある(越前地理指南)。慶長6年と推定される諸浦御役舟書帳并御肴わりによれば,舟4艘とある。年貢率は,天和2年の2割3分が最高,安永2年は1割2分5厘,ほかに山手銀・御肴役・海役・川役・番堂野地子・油役など。天保10年から7年間の笘役は4枚で,1枚は2匁(賃小舟役銀并笘役取立帳)。安永2年の家数176・人数847,牡馬3,海舟・漁舟4,川漁舟や百姓作舟など91で,農間に北潟湖の川漁が行われる(村鏡)。安政6年福井藩御立山に1万本余の植林(区有文書),名産はボラ(越前往来)。当浦の北潟湖は慶応3年干拓のため海と湖を仕切る水門工事を行い,銀610貫余と徒刑人を使い,長さ1間・幅2間半の堤防を藩営で完成。湖では福井藩主下賜の糸による「かし網」漁が行われた。寛永12年カキ塚28か所と所有者58人,ほかに小塚70か所(御高蠣塚持帳)。水戸口から小牧のフクラまで1里22町余,深さ1丈4尺余で北潟曲江【いりえ】として八景の1つ。付属の福良池は,享保年間頃には小牧のフクラとは別で,南北96間・東西260間,深さ7丈余で鯉・鮒が多い。当浦に山王がある。安永年間まで揚浜塩田があった。泰澄が建立した安楽寺があり,また安徳天皇をかくまったという八雲社があり,同社には祭礼時の「どっしゃどっしゃ踊り」が伝わる。小牧から4月の蓮如忌参詣者のための舟渡しもあった。明治2年の北潟浦西の戸数99・人口491うち男256・女235,同浦東の戸数131・人口675うち男346・女329(組下村々取調帳)。同4年福井県,以降足羽【あすわ】県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。同17年北潟村外6か村連合戸長役場の管轄に入る。同22年吉崎村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7330671
最終更新日:2009-03-01




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