ケータイ辞書JLogosロゴ 厨浦(近世)


福井県>越前町

 江戸期〜明治22年の浦名。越前国丹生郡のうち。はじめ福井藩領,寛永元年勝山藩領,正保元年幕府領福井藩預り地,貞享3年幕府領直轄地,元禄10年高森藩領を経てのち幕府領。高は,「正保郷帳」では茂原浦分を含み田方19石・畑方186石余の計205石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」では123石余,「旧高旧領」では123石。宝永3年の村明細帳によれば,家数101(本百姓75・水呑26)・人数633,牛44,諸役として山手米7石余・大網役14石余・船役米3石余・同銀95匁余・肴役銀37匁余・役塩33俵(6斗俵1俵を6匁として198匁の銀納)・鍛冶役4匁余があった。生業は,男が3,4月から9月まで塩焼用の薪作り,12月〜4月は釣漁・作方に従事,女が3,4月から9月まで塩稼ぎ,ほか畑方で野菜作りをした。また,廻船1・漁船9があり,船持の者は丹後・若狭あるいは越後・加賀まで口過ぎに商いに出た。主産業の塩作りでは,塩釜屋21軒・塩浜8,600坪があり,牛が多く飼われていたのも塩を運ぶためのものであった。この塩焼きには莫大な燃料を必要とし,山から燃料の木を伐り出すため中世以来山論が絶えなかった。江戸初期から厨城山をめぐって当浦と茂原浦・道口浦・平等村・熊谷村・古屋村などとの間に山論が発生した(越前町史)。文化7年の家数159・人数833。寺社は,北の高台に天台宗西徳寺,南に真宗大谷派碧岑寺,厨城山の山頂に愛染明王を祀る堂があり,このほか石観世音・長谷正観音,山沿いに八幡神社がある。明治3年本保県,以降福井県,足羽【あすわ】県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。「足羽県地理誌」によれば,漁船7人乗15艘・同4人乗5艘,この7人乗漁船は底引網漁船でカニ・カレイを獲り,4人乗漁船はサバ・イカ・マグロ・イワシなどの釣漁・網漁に使われた。また,塩は年平均600俵(1俵5斗入)が生産された。明治7年の戸数176。同年千磨小学校が開校し生徒数は男75・女2,同15年廃校。明治14年の戸数241・人口1,217。同22年城崎村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7330938
最終更新日:2009-03-01




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