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「下馬」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

下馬


往古はひ上り村という...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7330982]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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下馬所前野町【げばどころまえのまち】

(近世)江戸期~明治10年の町名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

下馬瀬口村【しもませぐちむら】
(近世)江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

下馬所前野町(近世)
江戸期~明治10年の町名江戸期は山田を冠称することもあり(天保郷帳),明治元年からは山田を冠称江戸期は伊勢外宮の門前町である山田町の1町宮川と勢田川に挾まれ,高倉山東麓の沖積平地に位置する「勢国見聞集」のように下馬所と前野町を分けて記載する文献もあるが,「天保郷帳」や「神都雑書」では下馬所前野町と記し,通例山田十二郷二十組町という場合も当町を1町と数えて二分しない下馬所の名の由来は,参詣者や往来する人が豊受大神宮(外宮)の前を通り過ぎるとき必ず下馬したことによる(神境紀談)勅使・例幣使が外宮へ参入するときは当町を縦断して一之鳥居へ向かう本道(御幸通り)を通った前野町の名は外宮前の原野という意に由来古くは宮川の支流豊川に接する原野であったが,江戸期には人家が増え,寛永17年山田奉行花房志摩守は外宮一之鳥居より岡本町に通じる新道を開く勾玉池はこの時の土木工事の名残という(神境紀談)自治組織である山田三方会合に所属し,貫銭【つなぎせん】と呼ばれる税を49両上納した寛永20年の戸数480・人数1,586(両宮宮下地図),嘉永3年の戸数189(藤本利治:門前町)御師数は延宝元年24,天保7年26(同前)山田三方会合衆の山田大路家の大邸宅があり,牛天神とよばれた大路菅原社ははじめ山田大路家の鎮守であった外宮の御常供田では古式の御田祭が江戸末期まで存続ほかに神社は山田産土神八社の1つ茜社【あこねしや】と蛭子受でにぎわう蛭子社が鎮座茜社には永禄2年銘の獅子頭がある寺院は寛文6年に10か寺を数えたが(山田三方会合記録),寛文10年の大火ですべて焼失し再興されなかったまた寛文12年には当町より出火して山田町715戸を類焼享保2年と明和元年にも大火で罹災豊川に架かる下馬橋は岩淵町との境界をなす二橋併架式の石橋で,傍らに柳の大木があり,連歌師宗祇は「駒とめてしはし影踏柳かな」と詠じた神宮関係の著書が多い外宮祠官中西信慶・黒瀬益弘は当地の出身明治5年の人口588同7年館小学校が開校したが,同10年他校へ合併同年豊川町と改称...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

下馬瀬口村(近世)
江戸期~明治22年の村名新川【にいかわ】郡太田保内三室郷のうちはじめ加賀藩領,のち富山藩領上馬瀬口村の親村村高は元禄11年1,036石(高辻帳 県史近世下),弘化2年上・下馬瀬口村分村以後においては,465石余で免3.7である慶応4年には戸数・入口は23戸・91人(郡方人別書上帳/県史近世下)常願寺川は県内河川の中で最も氾濫の激しい川で,記録に残る洪水は藩政期以前だけでも47回を数えるしかもその半数近くは馬瀬口村付近の堤防の決壊によるものと見られるこれに備えて明和6年防災林が設けられたその範囲は「上えハ荒屋村定,草履田川除辺水神宮廻り,下モハむじな川除の内外,夫より清水又用水縁下番村定」(加越能文庫)とあり,後世殿様林といわれ不切の林として第2次大戦まで大切に管理されてきた江戸期以前に堀村が上・下馬瀬口村の中間にあったが,いつの頃か洪水によって消滅したか,解村して馬瀬口村に入ったものと思われる鎮守は天満宮であるが,現在地は毘沙門堂といわれ,ヒノキ材の毘沙門天の像が祀られている鎌倉期の作風で,右手下半と左手上半を失っていたため,宝棒と宝塔を欠いていたが,昭和40年補修して復元した立山の北門鎮護のために安置されたというが,水害防護のため北方の富山城と常西流域平野守護のために置かれたとも考えられる村では上杉謙信侵攻の際,守護神を祀ったとも伝えている天満宮は前田氏治下となった江戸期に設けられたのであろう天満宮神鏡の銘記には「寛政七乙卯」とあるまた,この宮の祭礼は4月4日で,本来は毘沙門天の祭日である馬瀬口の寺は,天満宮境内に梅香寺(曹洞宗)がある寛保元年,天満宮の守護寺として建てられ,開山は下番中川氏出自の梅香照天である照天は明和3年の2度にわたる大洪水に際し,村人を指揮して護岸を完了したと伝えられている殿様林に立山大権現を奉斎して下流民の安寧を祈願して建立したのが照天の宮である明治9年石川県,同16年富山県に所属同22年上馬瀬口村とともに大庄村の大字馬瀬口となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

下馬引沢村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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下馬村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

下馬場古墳【しもばばこふん】
古墳時代後期の円墳...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

下馬尾村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

下馬【げば】
往古はひ上り村という...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

下馬瀬村【しもまぜむら】
(近世)江戸期~明治8年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

下馬瀬村(近世)
江戸期~明治8年の村名和泉国泉郡のうち槇尾川と牛滝川の合流点付近に位置するはじめ幕府領,貞享3年武蔵岩槻藩領,正徳元年幕府領,延享4年からは一橋家領村高は,四郡高附によれば正保2年51石余,「天保郷帳」69石余,「旧高旧領」では上馬瀬村と合わせて176石余村域は東西2丁・南北2丁半天保3年の田高63石余・反別4町2反余,このうち元禄11年改の新開高5斗余・4畝余,畑高6石余・5反余が含まれている旱損がちであったため,田方でも綿作が行われ,農間余業に女は木綿を織った(大鳥郡泉郡村々様子大概書)木綿の作付率は明和8年41%,寛政3年39%免5ツ6分,年貢米は夫米・六尺給米・御伝馬宿入用・御蔵前入用とともに石代銀納された庄屋は忠岡村と兼帯(給1石余)で務め,年寄は1家数・人数は,延享3年18軒・96,天保5年24軒・108,嘉永2年27軒・132,安政7年24軒・107(麻野家文書)寺院は浄土宗正念寺鎮守は天一神社明治8年馬瀬村の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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