ケータイ辞書JLogosロゴ 城有村(近世)


福井県>越廼村

 江戸期〜明治22年の村名。越前国丹生郡のうち。はじめ福井藩領,貞享3年から幕府領。村高は,「正保郷帳」171石余うち田方79石余・畑方91石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」も同じく171石余。宝暦10年の村差出明細帳(久保家文書)によれば,反別は田6町4反余・畑21町9反余。正徳3年の村郷鑑(藤井家文書)では,家数24(寺1)・人数164(男73・女91),牛18。また,田畑以外に個人所有の山や入会山があり,入会山の一部を血ケ平村へ卸しており,農間余業として男は薪・萱刈,女は蚕を飼い,古布を細くさいて織込んだ割織などを作っていた。城有村御免札留(同前)によれば,貞享3年から宝暦4年の本途物成は最高で村高の2割9分6厘,最低で5分であり,このほか山手銀18匁9分2厘なども納めていた。海浜・山間の小さな田畑を谷川水や溜池などで灌漑して農耕を行っていたが,享保20年大雨による土砂崩れで約6町の田畑が埋まり,宝暦6年にもかなりの被害を受け,また高波による被害も多かった。寛文4年,文化12年から文政11年の間入会山をめぐって血ケ平村との間に争論があった(同前)。寺院は真宗三門徒派の専西寺がある。八幡神社には八幡大菩薩・春日大明神とともに薬師如来が祀られている。この薬師如来を安置する薬師堂につき,村郷鑑には「此薬師堂,城有村・八俣村・梨ケ平村三ケ村之氏神ニ御座候」と記す。明治3年本保県,以降福井県,足羽【あすわ】県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。同22年下岬村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7331920
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ