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- 末広村(近世)とは
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![]() | 末広村(近世) 江戸期~明治8年の村名伊那郡のうち天竜川の支流三峰川・棚沢川の間に位置する三峰川の形成する洪積台地六道原(あだしが原)の中心にあたる村名は,幕末の高遠【たかとお】藩儒者岡村菊叟が命名した高遠藩領村高は「旧高旧領」で156石余この地域は古来安陀師野【あだしの】と呼ばれる広大な放牧地・原野・林地で,嘉永元年藩主内藤頼寧の時,藩の手で藤沢川の水を堰入れ,六道堤の築堤を開始,同5年に完成,通水2里半中分水22か所,番外落し7か所とし,分水穴の口径を決め分水量を調節した(六道原井筋分水落場明細書)井筋沿いに開田が行われ,安政6年藩による初めての竿入見分により,田2町7反余が計上され,米10俵・蕎麦50俵が上納されることになった(川下郷秋見分控)そして文久3年14戸を以て開村した(伊那市史)入植者の大半は上大島村からの入村者であったが,築堤工事の従事者も住みついた村の東端に諏訪明神・水神社がある(高遠城内藤原社分祀)六道堤の弁天島には石祠が祀られ,また堤塘上に松・桜が植えられ,弁天島とともに近在に聞こえた景勝地となった明治4年高遠県を経て筑摩県に所属同8年美篶【みすず】村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 末広村(近世) 江戸期~明治8年の村名越前国坂井郡のうち坂井平野の南東端,九頭竜川中流右岸に位置する地名の由来は,末が広がる瑞祥地として開墾地に多い地名と考えられるはじめ福井藩領,寛永元年からは丸岡藩領村高は,「正保郷帳」284石余うち田方270石余・畑方13石余,「元禄郷帳」「名蹟考」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高明和7年の御勘文帳では,免は3ツ8分9厘,取米110石余,この口米3石余で年貢米合計113石余,京升で131石余と記す天保9年の高免牛馬男女竈改帳によれば坪ノ内・末広村は並べて記載され,当村の高は変らず,免3ツ9歩1厘「足羽県地理誌」によると,戸数19・人口100(男55・女45),馬8,田10町5反余・畑9反余,物産は菜種5石,綿50貫目明治4年丸岡県,以降福井県,足羽【あすわ】県を経て,同6年敦賀県に所属同8年坪ノ内村に合併... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 末広村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 末広村(近世) 江戸期~明治9年の村名津軽郡田舎庄のうち津軽平野北部,岩木川支流松野木川左岸の平坦地に位置する弘前藩領当村は,宝永元年御蔵派によって梵珠山地の西端にいくつかの溜池を築造し,排水用の阿部堰を開削して開発された俵元新田8か村のうちの1村村高は,元文2年検地帳81石余,「天保郷帳」106石余(うち弘前本では天明8年改出新田74石余・文化9年改出新田32石余),「旧高旧領」106石余享保12年の村位は下,免合は四ツ成とある(平山日記)元文2年の検地帳によれば,小字に「しの原・宇田」があり,反別は田12町5反余・畑屋敷1町5反余明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の戸数16,村況は「田圃四方を周る」という(国誌)明治9年米田村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」