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- 関郷(中世)とは
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関郷(中世) 室町期~戦国期に見える郷名伊那郡のうち地名は伊勢国関氏の一族と伝える関盛春が新野に定着し,近郷を支配したことによる永享11年10月25日の年紀を有する天竜村諏訪社所蔵の銅製鰐口銘に「信州関郷左閑部若宮八王子鰐口」とあり,現在の天竜村神原の坂部も当郷内に含まれた(信史8)また「雪岫和尚語録」によれば,永正2年4月27日伊那郡蟠竜院の住持瑞秀(雪岫)は「伊奈郡関郷」の三十三所巡礼観音像の安座点眼慶讃仏事を行ったという(同前10)その後阿南町瑞光院所蔵の享禄元年閏9月21日の年紀を有する銅鐘銘に「伊賀良庄関郷於新野村鋳鐘,本願平右馬允入道沙弥秀繁」とあり,関春光が寄進している(同前10)また阿南町新野後藤兵衛氏所蔵の,天文2年9月6日の年紀を有する木造棟札銘に「伊賀良庄関郷円通山二善寺」とあり,関盛氏が二善寺を再興している(同前11)そのほか下条村吉岡観音堂所蔵の,天文13年4月□日の年紀を有する銅製鰐口銘には「伊那郡関郷義岡観音堂」とあり,現在の下条村陽皐【ひさわ】の吉岡も当郷に含まれた(同前11)下って弘治3年10月15日の年紀を有する阿南町新野伊藤義一氏所蔵の木造棟札銘にも「伊賀良荘関郷円通山二善禅寺之仏閣」とあり,源棟満が二善寺を修造している(同前12)関氏については応永7年8月の大塔合戦の際,関豊後守が小笠原長秀に従っており(信州大塔軍記/信史7),永享12年の「結城陣番帳」にも「関殿 同名又六郎殿」が見え(笠系大成附録/同前8),守護小笠原氏の支配下にあったものと思われる関氏の本拠ははじめ新野の日差城であったが,天文年間の初めには権現城(和知野城)を築き,和知野川を越えて吉岡の下条氏に対抗したと伝え,その頃の領域は,現在の阿南町新野・北条・東条・南条・西条・富草,天竜村神原のうちの福島・向方,愛知県富山村に及ぶ27か村(3,000貫文余)であったという(関伝記/伊叢4)しかし天文13年下条氏に権現城を落とされて滅亡した(下伊那史)郷域は,天竜川右岸の現在の下条村陽皐から天竜村神原にかけての地域と推定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関郷(中世) 室町期~戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関郷(中世) 戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関郷(中世) 鎌倉期に見える郷名上総国伊南荘のうち金沢文庫所蔵聖教「往生礼讃聞書」(金沢文庫文書/県史料県外)に,康元元年正月14日,上総国伊南関郷常楽寺でこれを書いた旨の奥書がある現在,関郷常楽寺の所在は不明... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」