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- 大門町(近世)とは
「大門町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 大門町(近世) 江戸期~昭和47年の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大門町(近世) 江戸期の町名善光寺町の一町で,善光寺町の中心をなす八町の一つ南大門ともいった善光寺の門前の南に南北に延びる町で,善光寺町の中心をなす善光寺宿の本陣・問屋をはじめ,約30軒の旅籠屋があり,当町は旅籠屋営業を独占する特権を有していたこの権利を守るため,他町にさまざまな干渉を加え,東之門町の木賃宿や権堂の水茶屋が旅籠まがいの営業をするのを許さずしばしば訴訟をおこした明和元年の人数634,うち男354・女280(長野市史)文化5年には716人(長野市史考)弘化4年の善光寺大地震での死者284人(長野市史)嘉永6年善光寺八カ町竈数改留によれば,竈数148,うち大屋57・店借40・地借51(県史近世史料7-2)元治元年の人数676(長野市史)明治4年善光寺領は廃止され,これに伴って以後は長野村・長野町のうちの通称町名となり,現在も長野市長野のうちの通称町名として残るなお,明治・大正期までは町の一等地として栄え,明治31年には134戸・862人,大正5年には701人を数えたが,昭和初期から衰え始め,ことに第2次大戦後は衰退が顕著で,昭和62年には80世帯・233人となっている... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大門町(近世) 江戸期~明治7年の町名江戸期は府中町,明治2年からは武生【たけふ】町の1町北陸街道沿い本町から東へ入る町で,馬場通を横切って帆山寺の門前を通り,帆山の渡しへ出る当町の中程から南へ進むと南小路町へ,北へは天王町へ続くまた東寄りの所から松原通りへ抜ける池ノ辻子があり,共同井戸(堀抜)があった町名は府中の入り口を意味すると考えられ,中世の文書に府中大門道場時衆(西福寺文書)の文字が見える家数は寛永2年31(浅井家文書),安永3年39(前田家文書)嘉永4年の町中家別に本家37軒・地借14軒庄屋共,歩行1とある(南条郡誌)道路の中央に用水溝(大平用水)があり,本町の用水から天王町・松原を経て,府中館へ入る天保11年河原町の天王社が大門町の裏へ移転なお同社の寛延2年銘の鳥居に大門町と見える明治7年の戸数52(南条郡誌)同年橘町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大門町(近世) 江戸期~明治4年頃の町名福井城下のうち室町組の1町西御堂(現西本願寺別院)正面の門前から北陸街道に至る南北の通り沿いの町で,参詣人でにぎわう門前町であった町名は西御堂大門前通りの町の意で,正徳3年頃の御城下惣町間数帳には「大門町 四拾間,往還ヨリ御堂門前迄,但道幅五間」と記されている明治7年町名改正時の記録には,旧町名中にも町名が見当らず,その頃までには西御堂町に吸収されていたかと推測される町域は,現福井市松本4丁目の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大門町(近世) 江戸期~明治2年の町名今出川通今出川御門上ル相国寺惣門下ルの町寛永14年洛中絵図では「大門町」とあるが,慶安年間から元禄年間頃の絵図では「大文町」の字があてられている町名は相国寺惣門の南側に位置していたことによると思われる貞享年間以降明治期まで,当町東側に伏見宮の屋敷があった(貞享3年京大絵図)江戸期は上立売九町組枝町相国寺門前八町随身五町に属す明治2年相国寺門前町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」