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- 田畑村(近世)とは
「田畑村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 田畑村(近世) 江戸期~明治8年の村名伊那郡のうち天竜川上流右岸に位置するはじめ飯田藩領,慶長18年幕府領,元和3年飯田藩領,寛文12年幕府領,天和2年上総高滝藩領,元禄12年からは幕府領村高は,「天正高帳」284石余,「正保書上」も同高,「元禄郷帳」637石余,「天保郷帳」699石余,「旧高旧領」700石余享保の飢饉は当村にも大きな被害をもたらした享保14年から畑作の不作が目立ち,同15年5月14日から6日間の大雨による天竜川氾濫が追い討ちをかけた同15年の水旱風損引きは村総高の46%にも及んだこのような状態の中で同17年の大飢饉を迎えるまた助郷負担も,当村を疲弊させた当村は享保7年に助郷の免除嘆願を出しているその訴状によると,5年前から木曽助郷を勤める宿への人足高は350人,年によっては405人に及び,日数も長いこと,さらに天竜川・大泉川の川筋にあたるため,川除け御普請も命じられたことなどを理由にあげている(王理軒文書)明治元年伊那県,同4年筑摩県に所属同7年の戸数73・人口403同8年南箕輪村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田畑村(近世) 江戸期~明治5年の村名端畑・端畠(濃州徇行記),田端(町村略誌)とも書き,「はしばた」とも読む(新撰美濃志)美濃国加茂郡のうち美濃加茂丘陵の北部,蜂屋【はちや】川の源流近くの谷あいにある尾張藩領の江戸中期に分割された山之上【やまのうえ】8か村の1つ村高は「天保郷帳」「旧高旧領」ともに42石余「濃州徇行記」に「此村は南坂よりつゞきの奥洞也,家は22戸ほどあり,小百姓ばかりなり,民戸は山の麓に散在せり,山奥まで田畠あり,下田多し……此村にては専山かせぎもすると云」とある鎮守は神明社明治4年岐阜県に所属,同5年山之上村の一部となる現在自治会名に残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田畑村(近世) 江戸期~明治7年の村名飽田【あきた】郡のうち北部台地の西側,井芹川左岸に位置する字小園鶴に平安期以降とみられる窯跡,居屋敷地蔵堂に大永7年銘,小園鶴に天文17年銘の板碑がある熊本藩領村高は「旧高旧領」365石余「肥後国誌」によれば五町手永に属し,高354石余,小村に小園,神社に天満宮があるまた同書に,古くは当地あたりは泥地で農地にならないため,まず塚を築いて柳を植え,田の神を祀ってのち,開発していったとある熊本県を経て,明治5年白川県に所属同7年下硯川村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田畑村(近世) 江戸期~明治30年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」