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- 松田村(近世)とは
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松田村(近世) 王府時代の村名国頭【くにがみ】方,はじめ今帰仁【なきじん】間切,のち羽地間切のうち「高究帳」に今帰仁間切まつざ村と見え,我部【がぶ】村と併記され,高頭154石余うち田108石余・畑46石余「由来記」では羽地間切松田村と見える康煕30年(1691)我部村に含められたというが(球陽尚貞王23年条),その後も松田村は存続しており,編入の時期は未詳乾隆元年(1736),松田村は他村とともに1か所に集在して農地も狭く,山林を焼いて畑としていたことから,蔡温の山林政策により,山林内から移された(球陽尚敬王24年条)この時松田村の住民は,現在の今帰仁村天底【あめそこ】付近から,我部村とともに屋我地島に移された同3年跡地に今帰仁間切湧川【わくがわ】村を新設(球陽尚敬王26年条)現在でも我部とは別々に祭祀を行っている |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
松田村(近世) 江戸期~明治9年の村名出羽国平鹿【ひらか】郡のうち秋田藩領はじめは板井田村のうち雄物【おもの】川西岸部の平坦地に位置する17世紀後半に仙北郡宮田村(大曲市)から来た横手給人能味氏の勘右衛門が開墾したといわれ(雪の出羽路),「元禄7郡絵図」に松田新田村133石余と図示「享保郡邑記」では新田の字をとり松田村と記し,戸数22軒松田新田村の村名は幕末まで併用「享保黒印高帳」では村高207石・当高138石(新田のみ)郷村方見廻役鈴木惣左衛門の「明和9年廻在御用日記」には,親郷角間川村の寄郷とあるが,「寛政村附帳」では袴形【はかまがた】村など寄郷3か村の親郷と記載され,当高216石余(ほとんど給分)とある村鎮守は神明社明治9年板井田村に合併村名は小字として残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
松田村(近世) 江戸期~明治10年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
松田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
松田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
松田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
松田村(近世) 江戸期~明治11年の村名尾張国海西郡のうち木曽川下流左岸尾張藩領鵜多須代官所支配村高は,「天保郷帳」698石余,「旧高旧領」964石余「寛文覚書」によれば,概高は本田693石余・寛文4年と同6年新田271石余の合計964石余,反別64町余(田47町余・畑16町余),家数79・人数480,馬25,桶杁14「徇行記」によれば,全村蔵入地,戸数71・人数369,寛永元年の開墾また,村は川島・中島に分かれ,小船40艘程を往来・耕作に使用し,水災の年には漁業を行って生産の助けにしたという寺社は,曹洞宗竜音寺・真宗大谷派西福寺(誓光寺)・八幡社産物は,蓮根・菜種など明治11年立田村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
松田村(近世) 江戸期~明治30年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」