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- 八百屋町(近世)とは
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八百屋町(近世) 江戸期~明治12年の町名江戸期は熊本城下坪井新坪井町懸の一町加藤清正が城下町建設の時,往時の国府,二本木付近から,商工業者を城の北東部坪井にも移転させ開いた町人町の1つ町名は八百屋の居住によるかと思われる府中案内道矩(県立図書館蔵文書)によれば,「新坪井米屋町二丁目南ヘ行東西ノ横町八百屋町西ヘ行ハ内坪井……東ヘ行ハ新広丁八百屋町直々南ヘ少シ折廻行ハ米屋一丁目長六橋海道也」と見える当町から南へ上通・下通を経て長六橋へ至る道は豊後街道にあたる当町の道路は特別広いが,それは,坪井の地がしばしば大火に見舞われたので復興計画に際し,一種の防火施設として街路を広げたためというこの広い通りには七日市が立ち,にぎわった明治12年南新坪井町・北新坪井町の各一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八百屋町(近世) 江戸期~明治初期の町名佐賀城下の1町寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ佐賀城の北に位置する東は東魚町,西は中島町と接し,町筋は東西に通る承応3年の佐賀城廻之絵図には町名が見えず,町の成立は承応年間以降のことであろう家数は元文5年屋敷帳では24嘉永7年八百屋町竈帳の総竈数32,人数80(男41・女39),身分別竈数は家来1・中小姓1・足軽9・被官2・その他の有姓者1・町人3,とくに多い職種の竈数は染屋2これによれば,身分別には足軽が多く,職種のなかには八百屋は1軒も見出せない宗派別竈数は,禅宗8・一向宗7・浄土宗1・法華宗1「明治7年取調帳」では東魚町の枝町として見え,明治初期には東魚町に編入したものと思われる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八百屋町(近世) 江戸期~明治2年の町名堀川通猪熊ノ間下魚棚下ルの町かつては農商雑居の地であったという(坊目誌)寛永14年洛中絵図に「やおや町」と見え,承応2年新改洛陽並洛外図では「モチヤ丁」と記す「宝暦町鑑」によると俗称を「餅屋町」と称したという江戸期,公儀軒役20軒役を勤めていた江戸期は川西離レ町の七条出屋敷組,明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】21番組に所属同年南八百屋町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八百屋町(近世) 江戸期の町名伊丹【いたみ】村(伊丹町)を構成する27か町の1つ文禄年間までに成立古くは裏屋町といい,裏町・道場之町の別名もあった天保3年には津国屋閑三郎の酒蔵があった(有岡古続語/伊丹市史4)現在の伊丹市中央3丁目の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」