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- 山本荘(中世)とは
「山本荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 山本荘(中世) 平安末期~室町期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山本荘(中世) 平安末期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山本荘(中世) 鎌倉期~室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山本荘(中世) 平安末期~室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山本荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名河内国河内郡のうち枚岡社領「勘仲記」の弘安5年10月3日条(大成)に「平岡社々務止兼秀之相,社領藪崎・山本・荒本庄等社家令進止,修造并神事興行事可下知社司等申之由被仰下之」とあるのが初見叡尊が蒙古襲来の際に敵国降伏祈願のために大般若経を奉納した枚岡社の荒廃を関白鷹司兼平に嘆いたことにより,社務兼秀の相伝を止め,当荘以下を社家支配とし興隆を図るように関白より命じているなお,建長4年6月3日の藤原康高譲状写,正応5年正月日の藤原忠茂調度証文目録写には「大江御厨・山本・河俣両執当職」とあり,当荘は元来,大江御厨内にあったと思われ,水走氏が在地領主として執当職をもっていたことがわかるまた,至徳元年8月22日の藤原忠夏譲与目録写には「水走山本散在田畠弐町」「山本七ケ卿(郷)惣管領」などと見える(水走文書/枚岡市史3)現在の東大阪市横小路町・六万寺町・四条町・出雲井【いずもい】付近と思われる(府史)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山本荘(中世) 鎌倉初期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」