- JLogos検索辞書>
- 吉田郡とは
「吉田郡」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 吉田郡 もとは那賀郡の地で,10世紀前半に那賀郡から分離した |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田郡 明治3年以降旧幕府領や藩を継承する県が置かれたあと,福井県,足羽県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田郡【よしだぐん】 (中世)鎌倉期~室町期に見える安芸国の郡名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 吉田郡【よしだぐん】 (中世)室町期~戦国期に見える私郡名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 吉田郡(中世) 鎌倉期~室町期に見える安芸国の郡名鎌倉期とされる安芸国神名帳に「吉田郡」が見えるまた「芸藩通志」に安芸郡田所家の古文書の保安年中の免田牒に吉田郡の名があると記している当郡は古代の高宮郡にあたるが,保安年間の文書に吉田郡の名が見えるとすれば,高宮郡は平安末期までに吉田郡と改称されていたとみられる鳥羽院政期に吉田荘が成立するが,この吉田は吉田郡に由来すると考えられるまた「和名抄」の高宮郷が吉田郷となり,これが郡名に発展したものとも思われるが,詳細は不明文安3年5月3日の室町幕府奉行衆下知状に「造 内宮役夫工米安芸国吉田郡事」とあり,室町期にも役夫工米の賦課単位として吉田郡が記され,享徳3年4月28日の内宮役夫工米段銭請取状案にも「安芸国吉田郡内高原村公田三町五段」と見える(毛利家文書)平安末期までに郡内に吉田荘・内部荘・吉茂荘などが成立した高宮郡は中世には見えず,その郡域は高田郡に含まれたとされるが(県史),その後身である吉田郡は旧高宮郡のうち,少なくとも国衙領を指す呼称としては中世にも存続したと思われる現在の高田郡八千代町・吉田町・美土里町と高宮町来女木が郡域に含まれる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田郡(中世) 室町期~戦国期に見える私郡名長門【ながと】国厚狭【あさ】郡の最西部の汎称で,現在の下関市王喜と吉田の2地区にあたると推定される郡名の初見は福岡県直方【のうがた】市の頓野八幡宮永享2年3月23日紀年の鐘銘で,「長州吉田郡松屋別符東光寺」とある(日本古鐘銘集成)ついで厚狭郡松屋村厳島社の文安4年12月2日付の文書に「長門国吉田郡松屋別府厳島大宮司職田畠山野等事」とある(注進案16)寛正2年6月29日付の「従山口於御分国中行程日数事」には,訴人の申状によって召文をしても,遅参がちで日数のかかることが多かったため,山口・吉田郡間は2日,請文の到来日限は7日と規定している(大内氏掟書)この壁書当時は厚東【ことう】郡・厚狭郡・吉田郡の3郡分立であった下って弘治3年8月19日付の毛利氏奉行衆連署状(閥閲録66)には「長州吉田郡松屋村漆拾石足〈修禅寺半済〉事」と見え,また天正2年2月13日付の山口氷上山興隆寺二月会大頭役の差定(寺社証文13),「三頭 長門国吉田郡」とある慶長5年の検地帳には吉田郡の郡名はなく,寛文4年3月の諸郡廃合の時には,厚東と厚西の2郡を厚狭郡に復するとある(毛利十一代史)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田郡 郡内には青蓮院門跡領の藤島荘・禁裏料所河合荘・最勝光院領志比荘があった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉田郡【よしだぐん】 常陸国の郡名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 吉田郡【よしだぐん】 中世~現在の郡名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
- JLogos>>
出典:JLogos「JLogos」