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- 脇本村(近世)とは
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![]() | 脇本村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 脇本村(近世) 江戸期~明治8年の村名石見国鹿足【かのあし】郡のうち江戸期は津和野藩領高津川が矢立山脈の北端を大きく屈曲して流れる右岸地域に当たり,対岸は野口村村名の由来は川筋の大湾曲による(日原町史)とも,野地【のじ】郷の脇の村であることによる(八重葎)ともいう村高は「万手鑑」によれば,寛永14年検地121石余,「石見国高郷村帳」148石余,「天保郷帳」198石余元禄4年以降河川灌漑による開発が著しく10町余に達している(日原町史)文化11年本百姓29・紙船21で産紙が盛行した高津川は脇本・野口両村を中にしてしばしば川筋が変動して問題が起こり,幕府領日原【にちはら】村とはアユ漁をめぐる密漁問題が正徳・享保期に惹起し,解決を見なかった藩営の御立山下山,津和野城主吉見氏の一族下瀬氏の拠城下瀬山城址がある矢立山脈の北端に近い塔ノ峠【とのたお】を越えて津和野川沿いの木ノ口【このくち】村から高津川河岸野口村に達する塔ノ峠越え,野口村から対岸の脇本に渡って北西の奥殿【おくどん】を越えて添谷【そえだに】村に出る奥殿越えが重要な街道で,高津川の舟便もあった鵜岩の厳島神社・天満宮・大年社・大元森・水神森・大日森などがあり,曹洞宗宝泉寺がある明治初年の戸数32・人口151(万手鑑)同8年野口村と合併して河村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」