ケータイ辞書JLogosロゴ 相川町(近世〜近代)


山梨県>甲府市

江戸期〜昭和39年の町名江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町武田氏の時代に造営された町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた甲府城の西,郭内に位置する下横沢町の南に続く南北通りと,新青沼町に接する東西通りからなり,南北通りは西側61間余・東側33間余,東西通りは南側93間余・北側67間余(国志)町人足役を勤める大助32町の1町で,年間の人足出役基準は15人戸口は,寛文10年126人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年34戸(上下府中間別/同前),享保5年205人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年188人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年34戸・111人,うち男49・女62(国志),天保7年33戸・81人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)住民の多くは,南北通りの西側と東西通りの南側に広がる農地で農業を営んだ農地の灌漑用水は上飯田村陣馬堰から取り入れた荒川の水を利用し,また当町で取り入れた水は穴切神社前で二分し,1つは百石町方面の武家屋敷に使われ,1つは飯田新町,代官町方面を灌漑した湯村で下水が流入しているため飲用には不適当とされ,取入口の傍らに丸石道祖神を祀り,また「石尊大権現」と彫った石碑をたて,安政4年からは9月30日に水を清めるミソギまつりをしている明治3年の戸数31,うち家持23・借家8(甲府町方家数人数取調書)同17年上府中戸長役場の管轄区に入る同22年甲府市に所属同年から同36年まで上府中を冠称同36年国鉄中央線が開通,相川に鉄橋が架橋された戸数・人口は,明治22年30・127,同31年38・211同40年新柳町の遊郭から出火した大火後,遊郭が穴切田圃に移転すると,これに隣接する当町は遊興客目当ての飲食店が立ち並んだ同41年は戸数64・人口326と急増以後の世帯数・人口は,昭和2年144・736,同12年135・560同20年の空襲では155世帯中65世帯が全焼,3世帯が半焼し,罹災者は330人を数えた第2次大戦後は,農業を離れ,勤め人となる者,アパート経営をする者が増えた相川から取り入れた水門は道路改修でつぶされ,水田の跡には県営婦人相談所が建設された世帯数・人口は,昭和25年138・589,同30年140・615,同37年167・578同39年宝1〜2丁目の一部となる
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7334929
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ