ケータイ辞書JLogosロゴ 相又村(近世)


山梨県>身延町

 江戸期〜明治8年の村名。巨摩【こま】郡のうち。西河内領に属す。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年からは幕府領(上飯田・甲府・石和【いさわ】の各代官所を経て寛政6年以後市川代官所)。村高は,「慶長古高帳」15石余,「宝暦村高帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに173石余で「慶長古高帳」「宝暦村高帳」「天保郷帳」では相俣村と見える。「国志」によれば,枝郷に釘山があり,文化初年の戸数68・人口376(男178・女198),馬40,駿州往還筋にあり,南の横根村へは10町で榧木【かやのき】坂がある。同書によると神社は八幡宮,寺院は日蓮宗身延山久遠寺末の大石山正慶寺・蓮栖山妙久寺・妙梅山報恩寺がある。日蓮が身延山へ入山する途上に当地の正慶寺の所に至り,石に座して休息した時,大堂村の村吏正左衛門の妻が粟飯を首【こうべ】に戴いてそれを供し,このためその子孫は粟冠【さつか】を氏とするようになったと伝える。また,粟冠の鰍(粟粒を頭につけた鰍)が当地に住むという伝説もある(甲斐伝説集)。当村は南部宿の大助郷村で,明治3年には当村を含む西河内領53か村が助郷の免除を願い出ている(身延町誌)。同4年山梨県に所属。同5年の戸数75・人口364。地租改正前の反別は田17町余・畑48町余など(市郡村誌)。同8年豊岡学校設立。同8年豊岡村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7334931
最終更新日:2009-03-01




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