ケータイ辞書JLogosロゴ 青島荘(中世)


山梨県>市川大門町

鎌倉期から見える荘園名八代【やつしろ】郡のうち建久2年10月の長講堂所領注文の不所課の荘園の中に「青嶋」とあるのが初見(島田文書/鎌遺556)長講堂は後白河法皇の創建になるもので,その膨大な所領群は代表的皇室領の1つとして知られている正応6年4月の鷹司兼平譲状案にも「青嶋庄」が見えるが(鷹司家文書/鎌遺18182),これには「長講堂領」との割注があるので,長講堂(皇室)が保持したのが本家職,鷹司家(摂関家)が保持したのが領家職だったのであろう応永14年にも長講堂領の中に見え,「年貢三百段,帷布二十段」と定められている(宣陽門院領目録写/神奈川県史資料編古代中世3下)在地領主については,文和3年12月24日の沙弥浄光譲状に,他の所領とともに「甲斐国あをしまのしやう あさりのかうのうち はなのよさう後家のつくりの田一町 在家一間」とあるのが注目される(新渡戸文書/岩手県史中世文書)沙弥浄光は浅利氏で,その末裔は戦国期には奥羽比内地方の領主として威をふるっている(大館市史1)浅利氏は武田信義の子義成(遠義,義遠,長義ともいう)に始まる甲斐源氏の一支族で,その所領の名をとって浅利を称したといわれ,今も東八代郡豊富村浅利の大福寺には義成の墓と伝える層塔が残る(県文化財)その浅利氏がいつ奥州に下向したかは判然としないが,文治5年7月19日の奥州征討軍の中に「浅利冠者遠義」がおり,嘉禄2年4月27日の白河関での謀反人成敗に「甲斐源氏浅利太郎」が関係するなど(吾妻鏡),鎌倉初期から関連を考えさせる記録が残されている沙弥浄光譲状は,南北朝期に至っても本領青島荘浅利郷を浅利氏が領していたことを示すものであるとともに,青島荘内に浅利郷があったことを示していて興味深い当荘の位置については,江戸期に市川高田村に青島新田の地名が残るところから,それを荘名の遺名とするのが一般である(国志)また,「尊卑分脈」をはじめとする諸系図によると,甲斐源氏の祖刑部三郎義清は甲斐国青島または市河荘に配流されたとあることもあって,青島荘を市河荘の別名と考える説もある(甲斐叢記)この説の適否は検討を要するが,浅利郷を含んでいたことから,荘域は普通比定される市川大門町付近から東の方に大きく広がっていたものと思われる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7334936
最終更新日:2009-03-01




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