ケータイ辞書JLogosロゴ 浅利村(近世)


山梨県>大月市

 江戸期〜明治8年の村名。都留【つる】郡のうち。郡内領に属す。「元禄郷帳」では奥山村枝郷と注記されるが,他の郷帳では独立した村として高付けされている。当村の枝郷に強瀬滝がある(国志)。はじめ谷村藩領,宝永元年からは幕府領(おおむね石和【いさわ】代官所谷村出張陣屋の支配)。村高は,「慶長古高帳」75石余(なお,「慶長古高帳」「寛永村高帳」では75石8斗5升と見えるが,「大月市史」では文禄3年および慶長15年に77石8斗5升であったとしており,どちらかが誤記であろう),「寛文九年甲斐国郡内領高辻帳」「享保郷帳」ともに86石余,「天保郷帳」69石余,「旧高旧領」87石余(うち神田明神除地3斗余・天神除地1斗余)。文化初年の戸数58・人口277(男146・女131),馬17(国志),天保3年の戸数58・人口239(村高七通順一州諸留)。同年の記録によれば,村高87石余の内訳は田32石余・畑54石余で,山間部の郡内地方にあっては比較的田高が高く,浅利川と桂川の合流点付近の低地に田があった。ただし,郡内の他村と同様に当村でも養蚕と機業が重要な生業であったことにかわりはない。助郷は,小沢・強瀬【こわぜ】・葛野の3か村とともに甲州街道駒橋宿に出役。寺院はなく,神社は御岳社がある。明治4年山梨県に所属。同7年当村と奥山村西奥山とでそれぞれ民家を借りて浅利学校を開設し,毎月15日交代で授業を開始した。同12年西奥山に校舎を建設して遅能戸学校と改称したが,下浅利30戸が不便として敷地の変更を要求し,ついに分離して独自に再び浅利学校を設置し,それぞれ畑倉学校の分校となる。明治8年賑岡村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7334982
最終更新日:2009-03-01




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