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- 愛宕町(近世~近代)とは
「愛宕町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 愛宕町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町武田氏の時代に造営された町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた町人地甲府城の東北,郭外...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7335002]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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愛宕町(近世~近代) 江戸期~昭和40年の町名明治17~22年は富山を冠称富山城下橋北・舟橋向いとも通称した町名の由来は,愛宕権現の勧請後,愛宕村と称した地に町並みができたことによる(富山市の町名の由来)由来のごとく,もと愛宕村のうちであったが,富山城下の膨張につれ,北陸街道の道筋でもあり,続々家が建ち町並みとなった安永2年の町名書上には当町名は見えないが,同8年には1~5丁目があり(町方旧記抜書/県史近世下),天保12年にも丁目数は変わらず,本家貸家竈数64・人口277,うち男153・女124(富山町方旧事調理/県史近世下)文政4年高木屋からの出火は橋北のほとんどを焼き,わずかに愛宕神社,その他町家10数戸を残すのみで,駒見【こまみ】村まで飛火した(富山市史)明治9年石川県,同16年富山県に所属明治11年婦負【ねい】郡役所が設置された同年郡役所は藤井町に移転同22年富山市愛宕町となる同29年,地内に橋北銀行が設立されたがのち一番町に移転同時に富山銀行と改称し,昭和18年,高岡・十二・中越の各銀行と合併し北陸銀行となった橋北一帯は,神通【じんづう】川が屈曲する攻撃斜面にあたるため,昔からしばしば出水による被害を受けてきた明治35年,神通川治水対策として,河道をまっすぐにする馳越【はせこし】線工事が行われたその結果大正3年の出水は新川を決定的に本流としたため,旧河道をしめ切る堤防が建設された旧河道は次第に埋まって廃川地とよばれていたが,昭和6年より始まった富岩【ふがん】運河開削の土砂をもって埋立てに着工,現在の地形となった以後神通川出水による災害はない明治42年の戸数132・人口651,うち男343・女308(富山市統計書)昭和20年8月戦災昭和40年,現行の愛宕町1~2丁目・芝園町の各一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」