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- 飯野(中世)とは
「飯野(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 飯野(中世) 鎌倉期から見える郷村名磐城郡好嶋西荘のうち永仁2年11月11日の伊賀頼泰譲状案に「一,陸奥国岩城郡之内,好嶋西庄之内,預所職,同領家分,飯野郷之内付〈河中子・北目・新田・矢河子〉者」とあるのが初見で,当郷内の河中子・北目など4か村が子息光貞に譲られている(飯野文書/県史7)岩城郡八幡宮縁起注進状案によれば,承元2年に好嶋荘は東2郷・西1郷の3郷からなり,当郷は西荘の1郷にあたっていた(同前)永仁5年8月8日の八幡宮鳥居作料等配分状案では,西荘(飯野郷)には前述の4か村のほか,東目・好嶋・今新田・小谷佐古(小谷迫)・仏崎・小嶋などの村々(同前),応永8年閏正月15日の飯野八幡宮閏月祭礼配分目録には,新田・今新田・小谷佐久(小谷迫)・渋江・仏崎・荒野・小嶋・矢川子・好嶋・白土などの村々が見える(同前)また嘉暦2年7月16日の伊賀光泰申状には「みちの国よしまのしやうのうちい井のゝ村」と見え,好嶋荘飯野村・好嶋村預所職が子息盛光に譲られている(同前)建武4年6月日の伊賀盛光申状では「陸奥国好嶋庄内飯野村并好嶋村預所職」などの安堵を室町幕府に申請し(同前),同年8月3日の中賀野義長打渡状で「陸奥国好嶋庄西方」が打ち渡されている(同前)暦応5年3月22日の石塔義房軍勢催促状では「飯野地頭殿」(伊賀盛光)に対し,北朝方の奥州総大将である石塔義房が三迫【さんのはさま】出陣を要請している(同前)また同年6月17日の石塔義房下知状に「陸奥国好嶋庄西方飯野郷内今新田村事」と見え,当郷内の今新田村が伊賀盛光に安堵され(同前),同年6月19日の左衛門尉某・沙弥某連署施行状および同年7月3日の加治左衛門尉家頼打渡状で盛光に打ち渡されている(同前)当地が郷名として見えるのは南北朝初期頃までで,貞和2年7月27日の伊賀光泰置文には「陸奥国岩城郡好嶋庄西方飯野村内今新田義相房在家壱宇田壱町事」とあり,「神役以下御公事」を惣領方(盛光)に沙汰することを誓約しているが(同前),この「飯野村」は前述の「飯野郷」と同一のものと考えられ,当時はまだ郷と村の明確な区別はなかったといえよう文和4年12月の飯野(伊賀)盛光代光信壁書には「当社領同飯野村」とあり,当村が源頼朝の寄進以来飯野八幡宮社領であること,神主伊賀氏が軍忠を尽くしていることを述べ,当村に対する岩崎氏の濫妨を止めるよう要請している(同前)天文20年12月14日の飯野八幡宮鐘銘には「岩城郡飯野村八幡宮」とある(県史7)天文年間から永禄年間にかけての頃と推定される10月5日の岩城重隆(明徹)書状に「不及其料簡延引,同者与飯野へ帰城之義」と見え,重隆が高野山詣をしようとしたが親類家老たちの諫詞により飯野へ帰城した旨が述べられている(岩城文書/県史7)浜通り南部,現在のいわき市平好間町あたりに比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 飯野(中世) 戦国期に見える地名新川【にいかわ】郡針原【はりわら】村のうち明応元年10月の「立山寺神領針原公文給帳」に,「御神領針原公文給御百姓指出分」として,「百三十苅,四俵 飯野,太郎兵衛」と見える当地のうち立山神領として4俵が百姓太郎兵衛より差し出されていることがわかる(雄山神社前立社壇所蔵文書/県史中)現在の富山市飯野あたりに比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 飯野(中世) 鎌倉期に見える地名越後国蒲原郡白河荘のうち文永2年12月13日の大見政家譲状に白河荘の「水原条西黒河・舟原境事」として「西 限菅淵,河下飯野・次柳」と見える(反町大見水原文書)現在の豊栄市里飯野・山飯野に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」