ケータイ辞書JLogosロゴ 飯野牧(中世)


山梨県>身延町

平安末期〜戦国期に見える牧名巨摩【こま】郡のうち飯井野とも書くまた,日蓮書状にある「飯谷」も当牧一帯をさすかさらに,飯野は本来飯富野【おふの】であり,のちに大野と表記されたともいう(国志)富士川の支流波木井川・身延川の付近に位置する平安期は施薬院領「玉葉」安元2年10月11日条に飯野牧に関する記事が見える九条兼実は,この日,医師憲基なる人物に灸治を依頼していたところ,一向参上しないので,使者を遣わし,事情を尋ねたが,返事は要領を得ないそこで,さらに子細を尋ねたところ次のような返事があった施薬院領甲斐国飯野牧の下司政綱は同荘住人貞重らの対捍に事を寄せて年貢を未進して負累が積もっていたので,太政官では貞重を召喚して事情聴取を行うため,政綱にその旨を伝え7月7日付で請文を出させたところが,翌8日には,貞重は頓死してしまい召喚は不可能となったその後,この件につき,これは憲基と下司が結託して殺害したのだという訴えがあり,一昨日,憲基は尋問を受けたため,現在,身を慎んでいるのだというのである憲基はおそらく施薬院領の経営にかかわっていて何か不正があったと思われたのであろうか翌12日にも,この件で,担当奉行の兼光から厳しい尋問があったが,14日には,憲基は何とか弁明して,一応罪を免れている下って,建治3年6月日の日永書状によると,日蓮が文永11年の夏に甲州飯野御牧波木井の郷のうち,身延の嶺という深山に隠棲したとある(日蓮聖人遺文/鎌遺12768)これはもちろん身延山久遠寺の前身であるが,日蓮は弘安3年正月27日の書状の中で,当時の様子を回想しながら現況を次のように述べている「鎌倉を去て此山に入て七年也,此山の為体,日本国の中には七道あり,七道の内東海道十五箇国,其内に甲州飯野御牧三箇郷之内,波木井と申,此郷之内,戌亥の方に入て二十余里の深山あり,北は身延山,南は鷹取山,西は七面山,東は天子山也,板を四枚つい立たるか如し,此外を回て四の河あり,従北南へ富士河,自西東へ早河,此は後也,前に西より東へ波木井河中に一の滝あり,身延河と名付けたり,中天竺之鷲峰山を,此処に移せる歟,将又漢土の天台山の来る歟と覚ゆ,此四山四河之中に,手の広程の平かなる処あり,爰に庵室を結て天雨を脱れ,木の皮をはきて四壁とし,自死の鹿の皮を衣とし,春は蕨を折て身を養ひ,秋は果を拾て命を支へ候つる程に,去年十一月より雪降り積て,改年の正月今に絶る事なし」この文面からは,日蓮の閑居した身延山,飯野牧の付近の情景を彷彿させる(日蓮聖人遺文/鎌遺13847)下って,戦国期の永禄4年9月21日の穴山信君感状に「甲州西河内領飯野御牧之梅平郷」とあり,佐野内膳に対して梅平郷の13貫文の地を川中島の戦功の賞として充行っている(佐野文書/清水市史資料中世)当牧の範囲については,牧内3郷の1つ波木井郷が現在の身延町波木井および身延山に比定され,梅平郷が同町梅平に比定されるさらに,大野が飯野の変化とすれば,現在の身延町波木井・梅平・大野という同町中央部,富士川右岸の一帯と考えられる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335067
最終更新日:2009-03-01




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