ケータイ辞書JLogosロゴ 石和郷(中世)


山梨県>石和町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。はじめ山梨郡,のちに八代郡のうち。伊沢・井沢,また石和村とも見える。正応元年12月5日の深沢禅心(有経)譲状写(小早川家文書/鎌遺16822)に「かいのくに(甲斐国)ゐさハのむら(井沢村)のうち,はしかの(初鹿野)のや二らうかやしき」と見え,井沢(石和)村の弥二郎の屋敷は禅心から「ほとこせん」に譲られ,その後同人は不孝をはたらいたとして同村は悔返され,禅心の嫡子信経に譲られた。至徳4年の「塩山抜隊和尚語録」には「甲州石和県」に居住した禅徹禅門の35日の供養のことや,同じく「石和県」に寄住した清原氏の理真士女が観音経や光明真言経を書写したことが見える(大正新修大蔵経)。下って元亀元年12月1日の武田晴信判物(円光院文書/甲州古文書1)によると,信玄は円光院に,正室三条氏の菩提をとむらう茶湯料として石和の屋敷分と林部のうちと合わせて18貫文を寄進している。また天正3年4月1日の上原淡路守宛武田家印判状(今田滝蔵家文書/甲州古文書2)には「上州庭屋令在城別而奉公之間,石和郷其方居住家弐間分,棟別役有御免許」とあり,地内に上原淡路守の屋敷があり,軍功によってその棟別銭が免除されたことがわかる。天正10年3月の武田家滅亡後,甲斐を分国とした織田信長が同年6月に没すると,甲斐国には徳川家康が入部した。天正10年6月26日の徳川家寺領書立(一蓮寺文書/甲州古文書1)には「八貫文 石和二条長福寺」「四貫九百文 石和四日市場玉泉寺」などとあり,一蓮寺の末寺が徳川家からおのおの寺領を安堵されている。翌天正11年4月19日には,地内5貫文の地が石和八幡に(八幡神社文書/甲州古文書2),同5月13日には3貫450文の地が美和明神社に(美和明神社文書/同前)おのおの徳川家から安堵されている。また「天正年中二宮祭礼帳」に「七月七日 山宮へ麹子 石和の小倉民部」と見える(甲斐叢書8)。当郷は甲斐武田氏の祖武田信義の第5子石和信光の本拠地であった。信光については,「甲斐信濃源氏綱要」(広島県史資料編1)に「信義五男,応保二壬午五,生於甲州石和……号石和五郎」とあり,「尊卑分脈」には「右大将家御時,賜石禾庄,仍号石禾五郎」とある。その居館は,現在の石和町市部の郵便局付近と伝えられている(城郭大系8)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335076
最終更新日:2009-03-01




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