ケータイ辞書JLogosロゴ 石橋郷(中世)


山梨県>境川村

 戦国期に見える郷名。八代郡のうち。明応5年3月12日の武田信縄判物写に「右いしはし三ツくぬきくまのゝ宮ニおゐて,何事も別当申儀ニ志たかふへし,并もりはやしの事,らうせき(狼藉)あるへからさる者也」とあるのが初見(三ツ椚熊野神社文書/甲州古文書2)。この当時は三ツ椚の熊野神社は石橋郷に属していたかまたは石橋・三ツ椚の両郷の鎮守であったとも考えられる。下って,永禄4年閏3月吉日の武田晴信禁制には「二十一番 石はしの禰き……二十二番 熊野の禰き」とあり,当郷の八幡宮の禰宜と三ツ椚の熊野神社の禰宜が府中八幡宮の番役として甲府に赴き2日2晩の祈祷を行っている(八幡神社文書/甲州古文書1)。永禄11年3月21日の武田家印判状によれば,当郷の所務のうち18貫500文と夫1人が荻原源八に与えられている(荻原七郎兵衛所蔵文書/同前)。また,当郷には「石橋番匠」とよばれる番匠の集団が居住していたといわれるが,天正7年2月日の真田喜兵衛(昌幸)宛武田家印判状によれば,当郷のうち田屋1間の棟別・普請役などの諸役が免除されている(長国寺殿御事蹟稿/信濃史料叢書15)。同10年3月,武田氏は滅亡するが,6月2日には,織田信長も本能寺で討たれ,甲州は再び混乱に突入する。しかし,本能寺の変で堺から急遽帰国した徳川家康は,彼の入甲に先がけて大須賀康高らを河内路より侵入させ,国事を行わせているが,6月17日には康高は徳川家印判状を発し,武田旧臣の窪田助之丞正勝の本領を安堵しており,その中に石橋郷の38貫文と夫丸1人が見える(御庫本古文書纂/甲州古文書1)。7月に家康は中道【なかみち】往還から入甲し,同年12月9日の徳川家印判状写によれば,再度,窪田正勝の本領を確認している(同前)。また,同日には,先の荻原源八の子息か一族の同甚尉に「石橋内用久分三拾八貫五百文・同夫丸壱人」他計221貫500文等を安堵した(荻原七郎兵衛所蔵文書/甲州古文書1)。翌11年4月21日の徳川家康印判状写によれば,中村弥左衛門尉に対して「石橋内三功力山共尓七拾八貫五百文・同夫丸壱人」を本給のうちとして安堵した(旧中村村中村勘六所蔵文書/同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335084
最終更新日:2009-03-01




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