ケータイ辞書JLogosロゴ 市之瀬村(近世)


山梨県>櫛形町

江戸前期の村名巨摩【こま】郡のうち西郡筋に属す一之瀬とも書く天正20年の身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書/甲州古文書2)や慶長6年検地帳の表紙では「一瀬新居」「一之瀬新居」と記す甲府盆地西端,櫛形山山麓の市之瀬台地に位置し,坪川(市之瀬川)が流れる同川の谷の出口に発生した渓口集落である釜無川などの氾濫原で水田地帯の「田方」や御勅使【みだい】川扇央の水利に乏しい畑作地帯である「原方」に対し,市之瀬台地の水田と畑作地帯である当地の一帯は「根方」と呼ばれる地名の由来は市之瀬川の活動により生じたいくつかの瀬のうちの1つに位置していたことから生じたと思われるはじめ幕府領,宝永2年からは甲府藩領村高は,「慶長古高帳」308石余(ほかに妙了寺領2石余・八幡領4斗余),寛文11年検地560石余反別は,慶長6年検地では田16町余・畑5町余,寛文11年検地では田27町余・畑23町余・屋敷2町余当村は江戸初期から上市之瀬(上組・上分ともいう),下市之瀬(下組・下分ともいう)として独立の機能を有していたが,検地は慶長・寛文ともに上・下統一して実施されているこれは両村の耕地が入り乱れ,出入作が多く村切が不十分であったためであろうそのため年貢の割付も上・下統一と上・下分割を繰り返しているまた,「元禄郷帳」も当村1村として村名を記す享保9年幕府領に編入されると,年貢割付も上・下分割が固定化され,上市之瀬村・下市之瀬村として名実ともに独立した「宝暦村高帳」「国志」「旧高旧領」ともに上・下2か村に分けて村高を記すただし,「天保郷帳」では一ノ瀬村(村高560石余)として記される
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335116
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ