ケータイ辞書JLogosロゴ 稲積荘(中世)


山梨県>甲府市

鎌倉期から見える荘園名山梨郡と巨摩【こま】郡の両郡にまたがる承久の乱の際,東山道大将軍の1人として上洛した小笠原長清は,捕虜として連行してきた権中納言源有雅を,当荘小瀬村(甲府市小瀬町)で処刑したと「吾妻鏡」承久3年7月29日条にあるのが初見であるこの地域には,長清の父遠光も小曲(甲府市小曲町)に遠光寺を開基しており(国志),比較的早くから甲斐源氏の勢力が及んでいたものと思われるこの時期の荘園領主は不明であるが,鎌倉後期の弘安8年4月28日の仁和寺御室性仁親王令旨案には法金剛院領として「甲斐国稲積本庄并加納」とあり,またこれにより当荘は本荘のほかに加納が存在したことが確認できる(法金剛院文書/鎌遺15574)法金剛院は京都市右京区にある寺で,大治5年待賢門院璋子の御願により仁和寺内に建立され,鎌倉期には一時衰退したが,円覚上人により弘安5年に再興された(京都市の地名)当荘が法金剛院領となった経緯はわからないが,天文2年11月8日の法金剛院所領并末寺目録写に「稲積本庄西加納〈根本寺領弘安八五廿六〉」とあるから,再建直後に院領とされたものであろう(法金剛院文書/新編一宮市史資料編6)しかし,それから10年もたたない正応4年8月21日には,稲積本荘の地頭らが本所の年貢の違期・未進を繰り返すので,懈怠なきよう進済する旨命じてほしいと訴え出ている(同前/鎌遺17665)この訴えを受けて本寺である仁和寺は8月25日,鎌倉幕府に書を送り(同前/鎌遺17668),同年10月5日幕府は地頭に弁明を求めている(弘文荘待賈書目36号/鎌遺17722)その結果がどうなったかは明らかではないが,地頭の年貢怠納は繰り返されたようで,康応元年にも同院雑掌が訴え出ている(法金剛院文書/神奈川県史資料編古代中世3上)ただ,この時期の地頭の名や本荘に対する新荘の存在の有無は史料がなく不明その後も当荘は法金剛院領として存続し,戦国期まで確認できる(天文2年法金剛院所領并末寺目録写)また,下曽根(中道【なかみち】町)の日枝神社の社殿造営に荘内の大工が関係しており,応永6年には当荘「□□□郷末吉」,享徳3年には当荘下条住人浄槃の名が知られる(日枝神社棟札/中道町史上)戦国期には稲積十二郷の称があり,荘域を示すといわれるが,具体的に何郷を指すかはわかっていない「国志」では「当筋(中郡筋)ノ上条・中条・下条・西条,北山筋ノ石田・篠原ニ係リ,山梨郡ノ小瀬・小曲ノ辺リニ及ブ」と,甲府市南部から昭和町にかけての地域に比定しているかつて荘内上条(甲府市国母8丁目)にあった法城寺が,法金剛院末と伝えられることは(甲州記追加/国志),荘園領主との関係を考える上で興味深い
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335142
最終更新日:2009-03-01




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